【横浜空襲】焼夷爆弾が家に直撃-13歳が体験した「横浜大空襲」(2/2)
焼夷爆弾(しょういばくだん)が家に直撃
-そうだったんですね。空襲はどのようなものだったのでしょうか?
これは戦後調べて分かったんですが、横浜の空襲では、サイパン島から大型爆撃機B-29が500機、硫黄島から援護(えんご)をするP-51という戦闘機が200機やってきました。かなり戦闘機による機銃掃射があったそうだけど、私の方には来なかったです。だけど我が家は31㎏の焼夷爆弾※が直撃してしまいました。僕は見てたんですよ。物干しに登って。空から落ちてくる真っ黒の豆粒がだんだんグレーになっていった。これはいけない、ということで物干しから降りました。ちょうど家の角に来たら、家の中に落ちたんです。ドッカーン、バリバリバリという音を立てて。瓦屋根ぶち抜いて、洋ダンスぶち抜いて、畳ぶち抜いて、ドカーン、です。
周りの塀は全部倒れていてね。爆風がひどかったですよ。でも幸いなことに、その場にいた母、祖母、叔母、妹、そして私の5人は皆無事でした。本当に命拾いしたと思いますよ。柱時計が9時32分で止まっていたから、9時ちょっとすぎから燃え始めたと思います。ふつう火事は柱とかは残るでしょ?なのに焼けてしまって何にも残らなかった。ガラスも1000度以上になると溶けてしまうらしいから、あの一帯全部が焼けて溶けてしまったようです。
※この日野村さんのお宅に落ちたのと同じものと思われる「M47A2焼夷爆弾」(31.5㎏)が平塚市博物館のホームページで見れる。
-自分の家に爆弾が落ちるなんて、想像もつかないですね。
食らってみないとあの怖さはわからないね。全部燃えちゃった。僕のもう一人仲のいい友達も、はじめ防空壕入っていたんだけど、そこは危ないというので家族を連れて海に逃げた。それで助かったんです。でも他の同級生は両親と防空壕でやられちゃった。
-防空壕は各家庭にあったんですか?
そうです。最初は、各家庭は畳上げて、その下に防空壕みたいの作れって言われてたんですよ。多分ヨーロッパで軍部がそういうの見てきて、地下室がいいとなったんじゃないかな。日本には地下室なんてないから、言われた通り畳上げて作りました。でもそれだと、焼夷弾落ちてきたらみんな家ごと焼け死んじゃうんですよ。それで外に防空壕作るようになったんです。
【横浜大空襲】
1945(昭和20)年5月29日午前9時頃、マリアナ諸島の基地より飛来した517機ものアメリカ軍のB-29 大型爆撃機により、横浜市は大規模な空襲を受けました。投下された焼夷弾の量は約44万発、約2,500トン。約300機のB-29で約33万発、1,700トンの焼夷弾が投下されたと言われる同年3月10日の東京大空襲を上回る規模の空襲でした。中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれ、死傷者・行方不明者あわせて約1万4千人、被災家屋約8万戸を出し、市街地の44%が被害を受けました。
出典:横浜市ホームページ
「命があればなんとかなる」
-空襲後はどのような生活を送っていたのでしょうか?
空襲の翌日あたりから、そばにあるお寺の別院にリヤカーで真っ黒けになった遺体を運び込んで荼毘(だび)に付しているのを見ました。火葬場もみんななくなっちゃったんでね。死体をたくさん見ていると、あまり怖いという感情はなくなっちゃうんですよ。夜はなんとも言えないにおいになりましたよ。焼け跡のにおいと、焼夷弾の油のにおいと、遺体のにおいと。なんとも言えないにおいでした。
-全部焼けちゃうという感覚が今の私たちには分からないです。近所の人はどう声かけあうんですか?
何にも残らないですよ。全部焼けて、溶けて残らない。みんな憤慨なんかしていないんですよ。日本人はみんな「しょうがない」って最後にはなるね(笑)。助かってよかったね、とも言わない。三々五々焼け跡に集まってきて、おたくも焼けちゃったね、っていう程度なんですよ。日本人はおとなしいんですよほんとに。それと、空襲と言っても、辛酸をなめた人と全然影響を受けなかった人とで、状況は全く異なってきます。
大事にしていたものが一瞬でなくなっちゃうんですから。僕は飛行機が好きだったから家の中に模型ぶら下げてあったり、子どもの頃もらったブリキのおもちゃなんかもとってあったけど、みんな焼けちゃったんです。それから、物というのはそういう時になくなっちゃうんだということが分かりました。大事にもするけど、あまり物に執着しなくなった。よく命あっての物種というけど、命なくなったらなんにもなくなっちゃう。命があればなんとかなるんです。だから僕の仲間は、案外そういうところみんなしぶといというか、健康さえ恵まれていれば、あまりみんなくよくよしないんですね。
―その頃はご飯は食べれましたか?
焼け出されてからは食べるものはなんにもなかったです。やっぱりね、ひもじいっていうのはほんとにひもじい。やたら腹減っちゃうんですよ。ただね、農家に手伝いに出ると白米、味噌汁、たくあんが出たんです。ところが小作農(豪農の下で土地を借りて耕していた人たち)のところに手伝いに生かされると、芋だとかそういうのしか出なかったですけどね。
―やはり食べ物は極端に減ったんですね。その中でも食事はしていたと思うのですが、どんなものを食べていたのでしょうか?
あまり覚えていないんですけど、メリケン粉をこねて団子状にしてお湯に入れ、すいとんにしたり。うまいものじゃないです。品数は少なかったですね。大根とか、野菜を煮たようなものを食べていました。かぼちゃなんかは切って油で炒めて食べました。かぼちゃとなすばかり食べていたから、ずっとかぼちゃとなすを食べたくなくなりました。なすは油で焼いて味噌をつけて。品数がなくてそればっかり食べていたので、飽きちゃいました。
戦後は残ってた米くらい。あとは雑炊、イモ食ったり。配給は戦後2年間、中学3年くらいまであったと思います。
-戦後もしばらくは食べ物がなかったんですね。ご家族はどのような状況でしたか?
私の父は予備役の陸軍少尉だったんですが、1944(昭和19)年に召集令状が来て、43歳で軍隊にひっぱられました。中国の温州というところにいて、幸い戦闘には参加せずに生きて帰ってきました。1945(昭和20)年の11月に部隊のあった広島に戻ってきて、翌1946(昭和21)年の2月に家に帰ってくることができました。
戦後もあまりつらいとか深刻にならなかったですね。若いっていうのはやっぱり強いです。父が帰ってきましたしね。親が帰ってこなかったら経済的には相当深刻になったと思います。母子家庭になっちゃったら大変だったろうと思うんです。逆に僕らが死んじゃって親父が帰ってきたら、家族が誰もいないという状況ですからね。裏返しの状態。命のありがたみっていうのは助かってみて初めてわかるんですね。
-空襲で家が無くなってしまいましたが、その後どのように過ごされましたか?
母の姉が栃木県今市(いまいち)市に疎開していたので、もともと6月からそこに疎開するつもりで荷造りしていたんです。でもその荷も全部焼けちゃった。身の回りの物だけで今市に母、妹と三人で疎開しましてね、県立今市中学校に1年として入りました。そこで終戦を迎え、また三学期に横浜に戻ってきましたよ。
―ホテルニューグランドはずっと営業されていたんですか?
戦争中もやっていましたよ。戦争が始まるとアメリカ人は帰ったり、軟禁されたりしていなくなりました。その後はドイツ人、イタリア人、それから外交官とか、フィリピンの占領地から日本に着いた人たちが利用しました。ある時になると、東芝の徴用工の人たちに貸しちゃって。12時間交代の2直でやってたんです。そういう人たちが泊ってたんで、1945年5月29日の空襲の時は、焼夷弾が裏の2階建ての家にバラバラ落ちたんですけど、みんなで放り出して消しちゃったんです。ニューグランドも窓でも空いてたら火が入って焼けちゃったんでしょうけど、全部閉まってたから焼けませんでした。
終戦時、ニューグランドはGHQに接収されていましてね。マッカーサーが太平洋戦争終戦の調印※をするために3日間宿泊したんですよ。私の祖父が民間人として最初に夫婦でマッカーサーに会ったんじゃないかと思います。
※太平洋戦争終戦の調印…1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリの艦上で行われた
目の前にいた人がいなくなる。それが戦争
-今、当時のことを振り返られて、どんな風に感じますか?
戦争っていうのは、つまり人が亡くなるっていうことなんですよ。目の前にいた人が、自分の意志に関係なくいなくなっちゃう。それがいけないことなんです。イデオロギーに関係ない。あいつもいなくなったな、っていうのは経験してみないと分からない。その立場にならないと分からないと思います。それで、20年くらい前から、戦争体験のことを話してもらいたいと言われて話すようになりました。
―戦争の体験をお話される際、色々な資料をまとめられたりしていますが、どんな思いでやられているのでしょうか。
思いというか、当時の記憶を新たにしているんでしょうね。自分自身でこういうことがあったっけと思って調べると、新たに気付くこともあって。自分の思い込みがなくなって、裏を取ることによって記憶違いがなくなります。
―分かりやすくパネルにまとめられたり、ジオラマも作成されていて、本当に伝えるための情熱が伝わってきます。
話すだけだとよく伝わらないでしょう。それに話すことが本当かも分からない。だからこうやって調べたものをまとめて見やすくしています。
-素晴らしいですね。ぜひそのお取り組みを今後も続けてください。私たちもお手伝いします。ありがとうございました。
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