history for peace’s blog

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【体験談】ラバウルとマニラ。壮絶な戦場を体験された二人のお話

こんにちは。histoy for peaceです。愛知県に住む方より、二人の叔父様の戦争体験が送られてきました。手書きの便せんで送られてきた、生々しい戦争の体験。ぜひ多くの方に知ってもらいたいので、ご紹介します。

 


私の二人の叔父の話をします。叔父たちにはもう一人兄がいましたが、病死して以下の二人が赤紙で兵隊に取られました。

次男(政雄) 1921(大正10)年1月20日 生
三男(三郎) 1923(大正12)年8月1日 生

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二人同時に赤紙で招集

1941(昭和16)年の秋近くに薄れた紙二枚が届きました。叔父二人は何のことかわからずいると、父が涙を流したそうです。そうです、赤紙だったんです。大学、高校とその頃では難しい学校に入学、就職も決まっていたそうです。長男は今でなら治る可能性大なのに、結核で病死したばかりだったんです。
次男政雄は広島の呉の方へと入隊。三男の三郎の方はラバウルへ出兵。もう家には子どもだった私の父とおじいさんだけの男二人となってしまい、寂しさを覚えていると。悲しかったと。

 

三郎はラバウル

三郎の方は、福井県に召集され、北九州の門司港から出港し、ラバウルに向かいました。輸送船が到着する前に米国の攻撃にあい、物資届かず、苦心の毎日。ラバウルは、やはり米国からの空襲がひどく、水木しげるさんと同じ地で苦しかったそうです。食糧は無く、兵器は無く、病人ばかりの日本兵に、爆弾の雨。人肉、草木、靴の皮まで食べてしのいだそうで、片腕を無くした人が沢山いたと聞きました。兵の数、武器の数、船の数と、圧倒的な物量の差で次第に死を感じていったそうです。しかし、三郎の方は米国の空襲が長めではなかったそうで、助かり復員された方もいました。皆、ボロボロだったそうです。

大きい体で力も強く、日本人なら誰にも勝てる弟三郎も、弾や火には、危険をひしひしと感じたとのこと。しかし、義理と人情の男。逃げはしなかったということです。


政雄は呉からフィリピンへ

1941年12月1日、広島の呉に三郎は編入されました。私の父は子どもながらに広島まで一宮から何十時間かけて面会に行き「いい子でいてよ。兄ちゃんすぐ帰るから」。と言われたそうです。父は叔父に会いに、おじいさんと何十時間とかけ、愛知から呉へ三回程、面会に行ったそうです。色々調べて館山砲術学校へ勉強にいき、二年ですぐに一等水兵まで昇ったそうです。まだその頃は国内は普通の日々を送れていました。

政雄は何年かで水兵長になり、呉に任務していました。1944(昭和19)年の10月頃から部隊司令部に入り、日本にいる予定と話していたそうです。しかし、戦況がひどくなり、ラバウルあたりから様々な戦闘を経て、フィリピンのルソン、マニラへ米国が攻めてきました。日本軍は太平洋戦争開戦当初は勝利を重ね、フィリピンからアメリカを追い出しましたが、マッカーサーはその時「必ず戻ってくる」と言ったそうで。そのことが現実になったのです。

そこで政雄は、臨時に作られた第31特別根拠地隊というマニラ防衛の部隊に配属されました。政雄は1944年10月頃から家族と話もしておらず、マニラ市街地へ向かうことになったそうです。日本兵とフィリピンの方のみさかいが無く銃でマニラを占領。しかし前記のとおりマッカーサーが上陸、逃げ廻るにも食料もなく、多くの日本兵やフィリピンの方が亡くなりました。その中に政雄はいたと認定されて、何一つ遺骨も紙もありません。父から聞いた悲しすぎる話です。そして国に頼むとマニラから日本に復員した人もいると聞き、三年手がかりを探しました。しかし、日本に1冊の本と軍歴書のみ。そして今に至り、その政雄は世に1度も出る事なく墓もない、人となりました。

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政雄さんの最期を記した軍歴書

1945(昭和20)年2月26日?本当なのだろうか?

戦死。帰ってきて 兄ちゃん。

※特別根拠地隊…占領地などの海軍基地を防衛・管理する臨時の部隊。