history for peace’s blog

このブログでは、history for peace がイベントのお知らせや活動報告を随時配信していきます。

戦争責任を肩代わりさせられたまま75年ー韓国人元BC級戦犯が語る不条理(3/3)戦後の苦難のあゆみ

 

(出典(a))

 

生活苦で自殺者まで出た出所後

―1956(昭和31)年10月に巣鴨を出所されたとのことですが、その後の生活はいかがでしたか。

先に巣鴨を出た朝鮮人元戦犯の仲間たちは、軍服1着と700~800円(現在の価値でおよそ5,800円~6,600円)を支給されただけで、その日から困窮状態に陥りました。巣鴨にいるときは寝るところも食べ物もあったけど、巣鴨を出てからは寝床から職から何にもないから、かえって巣鴨出てからが大変だったんですよ。仲間には、生活苦になって、どうしようもなくなって自殺する人間も出ているんです。

許栄(ホ・ヨン)さん自殺の新聞記事(出典(a))

 

 

日本政府は1952(昭和27)年4月より「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、日本人の元軍人・軍属とその遺族には援護をしながら、旧植民地出身者には一切しようとしないので、私たちは怒りを感じていました。そこで「韓国出身戦犯者同進会」(以下「同進会」)を結成し、釈放の受け入れ態勢の整備、政府による謝罪といったものを請求しようということになりました。それから本格的に運動が展開していきました。

巣鴨から釈放された後、韓国に帰れなかった事情は何でしょうか?

日本人の場合は、戦争の良しあしはともかくとして、自分たちの国のために死んでいくんだという心の慰めがあるんだけど、私たちの場合はまったくないんですよ。親日派とか、そういう具合にしか見られなかったわけだからね。

だから私たちは自分の国に対する負い目をすごく感じているんですよ。いくら強制徴兵であったとしても、あの当時自分の命をかけて(日本と)戦った(韓国)人がいっぱいいるわけですよ。ところが自分たちはそれもしないで、強制徴兵だと日本の戦争に協力をして、そして戦犯になったという負い目ですね。国に対する負い目。これがすごく強かったんですね。

 

生活のためにタクシー会社を設立

―政府に対して求める活動をすると同時に、タクシー会社も作られたそうですね。

そうです。それは日本に親兄弟も、知り合いも、誰も応援してくれる人もいない私たちが日本で生きていくために大きな力になりました。

巣鴨に収監されている時に、刑務所の中職業訓練ということでタクシーの運転手、整備工、経理とかを勉強してきて、私の仲間たちはほとんどの者がタクシー運転手の免許をもらっていました。それだったらじゃあタクシー会社を作って、そこに運転手として仲間たちを吸収すればいいんじゃないかということで、タクシー会社を考えたんですよ。

ところがその考えはいいんだけど、資本がないでしょ。タクシーの営業所もなければ車もなければ何にもない。それではたと困っちゃって。そこで相談したのが、いつもお世話になっている今井先生という耳鼻科のお医者さんです。今井先生は、「この戦争でいちばん馬鹿見たのはあんたらだ。なんとか自分でやれることがあったら何でもしたい」。と言ってくれました。だからよく面倒見てくれたし、巣鴨に居たころからよく慰問面会に来てくれたりしてくれましたよ。

そしてなんと当時の金で200万円(現在の価値でおよそ1,100万円)を出してくれて、それを元手にして計画を立て、運輸省(当時)にも行って働きかけ、ようやくタクシー免許をもらったわけです。そうしてタクシー会社「同進交通」の開業にこぎつけたのは、1960(昭和35)年11月のことです。経済的には「同進交通」が支え、精神的には「同進会」が支えるようになっていきました。

 

「国籍」を盾に補償を一切しない不条理

―同進会では、どのように運動を展開したのでしょうか?

同進会では、出所後の受け入れ先をしっかりしてくれと言って首相官邸前で座り込みもしました。鳩山一郎内閣(1954年12月~1956年12月)の時が一番相手にされず、厳しかったです。それ以降受け入れ態勢の改善や補償の要求などをずっとやってきましたね。

首相官邸前での座り込み(出典(a))

 

 

同じ戦犯でありながら、自分の国の戦犯には軍人恩給をやり、年金もやり、それから援護もやり。そういったことをやりながら、私たちには軍属として生命を危険にさらしておきながら、日本国籍がないからということで一切それらをやろうとしないわけですよ。それが私たちが一番今も不満に思っていることです。日本人の場合がそうであれば、少なくとも我々にも同じぐらいやるのが当たり前じゃないかと私たちは思うんですよね。ところがやろうとしないんですよ、日本政府は。

はじめのうちはね、補償について対応する意思があるかのような態度を日本政府は取っていたんですよ。でも実は日韓条約の交渉を進めており、1965(昭和40)年12月に「日韓基本条約」と「請求権協定」が発効すると、日韓会談で全部終わったから、あとは国(韓国)に話せ、と言わんばかりの態度に変わっていきました。同じ戦犯でありながら、自分たちの国の戦犯には、ちゃんと対応をしながら、台湾と私たちの場合には何もしようとしない。謝罪もしようとしない。それはどう考えても不条理じゃないかと。あまりに。今でもその気持ちは変わりませんが、裁判では訴えが認められず、現在は国会議員を通じて補償の法律を制定すべく運動を続けています。まだ問題は解決していないのです。

最も多いときは70名いた仲間も、みんな死んじゃっているんですよ。今は韓国にいる仲間も含めて3、4名というところです。

補償立法 法案提出1周年集会(2009年5月28日)(出典(a))

 

※補償立法…特定連合国裁判被拘禁者等に対する特別給付金の支給に関する法律

 

絶対に戦争は起こしてはいけない

―今の日本の若い人たちには何を伝えたいですか?

同じ日本の戦争に参加して、日本のために尽くしたのに、一方には恩給、年金、ほかに色々なものを応援してやりながら、もう一方は韓国・台湾人は国籍がないからと一切やろうとしない。その不条理、これをやっぱり知ってもらいたいです。それでいいのか。

そのうえで、どんなにうまいこと言ってもいったん戦争になってしまったらダメだということですよ。戦争をやっぱり起こさないことだということですね。私たちは、私自身がそうだけど、戦争というものについての深刻さがあまりなかったのかもしれないね。どうして戦争が起こるんだっていう。憎しみやそういうことだけしか考えていなくて、経済原則が底流に流れているんだっていうことはあまり考えなかったです。だから戦争が起きる前に、戦争が起きない努力というものが必要だと考えています。

だから今の若い人たちには、絶対戦争をやってはいけないと言いたいです。戦争がいったん起これば、いくら口で立派なこと言っても意味がなくなってしまいます。戦争はお互い殺し合いっこだからね。だから戦争が起こる前に、外交努力だとか色々して、戦争が起こらないようにしなければいけないんです。

ーどうもありがとうございました。

 

95歳になった李さんは、車椅子生活になった今も法律の成立を訴えて国会での集会に参加している



李鶴来さんの半生をつづった自伝