history for peace’s blog

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戦争責任を肩代わりさせられたまま75年ー韓国人元BC級戦犯が語る不条理(3/3)戦後の苦難のあゆみ

 

(出典(a))

 

生活苦で自殺者まで出た出所後

―1956(昭和31)年10月に巣鴨を出所されたとのことですが、その後の生活はいかがでしたか。

先に巣鴨を出た朝鮮人元戦犯の仲間たちは、軍服1着と700~800円(現在の価値でおよそ5,800円~6,600円)を支給されただけで、その日から困窮状態に陥りました。巣鴨にいるときは寝るところも食べ物もあったけど、巣鴨を出てからは寝床から職から何にもないから、かえって巣鴨出てからが大変だったんですよ。仲間には、生活苦になって、どうしようもなくなって自殺する人間も出ているんです。

許栄(ホ・ヨン)さん自殺の新聞記事(出典(a))

 

 

日本政府は1952(昭和27)年4月より「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、日本人の元軍人・軍属とその遺族には援護をしながら、旧植民地出身者には一切しようとしないので、私たちは怒りを感じていました。そこで「韓国出身戦犯者同進会」(以下「同進会」)を結成し、釈放の受け入れ態勢の整備、政府による謝罪といったものを請求しようということになりました。それから本格的に運動が展開していきました。

巣鴨から釈放された後、韓国に帰れなかった事情は何でしょうか?

日本人の場合は、戦争の良しあしはともかくとして、自分たちの国のために死んでいくんだという心の慰めがあるんだけど、私たちの場合はまったくないんですよ。親日派とか、そういう具合にしか見られなかったわけだからね。

だから私たちは自分の国に対する負い目をすごく感じているんですよ。いくら強制徴兵であったとしても、あの当時自分の命をかけて(日本と)戦った(韓国)人がいっぱいいるわけですよ。ところが自分たちはそれもしないで、強制徴兵だと日本の戦争に協力をして、そして戦犯になったという負い目ですね。国に対する負い目。これがすごく強かったんですね。

 

生活のためにタクシー会社を設立

―政府に対して求める活動をすると同時に、タクシー会社も作られたそうですね。

そうです。それは日本に親兄弟も、知り合いも、誰も応援してくれる人もいない私たちが日本で生きていくために大きな力になりました。

巣鴨に収監されている時に、刑務所の中職業訓練ということでタクシーの運転手、整備工、経理とかを勉強してきて、私の仲間たちはほとんどの者がタクシー運転手の免許をもらっていました。それだったらじゃあタクシー会社を作って、そこに運転手として仲間たちを吸収すればいいんじゃないかということで、タクシー会社を考えたんですよ。

ところがその考えはいいんだけど、資本がないでしょ。タクシーの営業所もなければ車もなければ何にもない。それではたと困っちゃって。そこで相談したのが、いつもお世話になっている今井先生という耳鼻科のお医者さんです。今井先生は、「この戦争でいちばん馬鹿見たのはあんたらだ。なんとか自分でやれることがあったら何でもしたい」。と言ってくれました。だからよく面倒見てくれたし、巣鴨に居たころからよく慰問面会に来てくれたりしてくれましたよ。

そしてなんと当時の金で200万円(現在の価値でおよそ1,100万円)を出してくれて、それを元手にして計画を立て、運輸省(当時)にも行って働きかけ、ようやくタクシー免許をもらったわけです。そうしてタクシー会社「同進交通」の開業にこぎつけたのは、1960(昭和35)年11月のことです。経済的には「同進交通」が支え、精神的には「同進会」が支えるようになっていきました。

 

「国籍」を盾に補償を一切しない不条理

―同進会では、どのように運動を展開したのでしょうか?

同進会では、出所後の受け入れ先をしっかりしてくれと言って首相官邸前で座り込みもしました。鳩山一郎内閣(1954年12月~1956年12月)の時が一番相手にされず、厳しかったです。それ以降受け入れ態勢の改善や補償の要求などをずっとやってきましたね。

首相官邸前での座り込み(出典(a))

 

 

同じ戦犯でありながら、自分の国の戦犯には軍人恩給をやり、年金もやり、それから援護もやり。そういったことをやりながら、私たちには軍属として生命を危険にさらしておきながら、日本国籍がないからということで一切それらをやろうとしないわけですよ。それが私たちが一番今も不満に思っていることです。日本人の場合がそうであれば、少なくとも我々にも同じぐらいやるのが当たり前じゃないかと私たちは思うんですよね。ところがやろうとしないんですよ、日本政府は。

はじめのうちはね、補償について対応する意思があるかのような態度を日本政府は取っていたんですよ。でも実は日韓条約の交渉を進めており、1965(昭和40)年12月に「日韓基本条約」と「請求権協定」が発効すると、日韓会談で全部終わったから、あとは国(韓国)に話せ、と言わんばかりの態度に変わっていきました。同じ戦犯でありながら、自分たちの国の戦犯には、ちゃんと対応をしながら、台湾と私たちの場合には何もしようとしない。謝罪もしようとしない。それはどう考えても不条理じゃないかと。あまりに。今でもその気持ちは変わりませんが、裁判では訴えが認められず、現在は国会議員を通じて補償の法律を制定すべく運動を続けています。まだ問題は解決していないのです。

最も多いときは70名いた仲間も、みんな死んじゃっているんですよ。今は韓国にいる仲間も含めて3、4名というところです。

補償立法 法案提出1周年集会(2009年5月28日)(出典(a))

 

※補償立法…特定連合国裁判被拘禁者等に対する特別給付金の支給に関する法律

 

絶対に戦争は起こしてはいけない

―今の日本の若い人たちには何を伝えたいですか?

同じ日本の戦争に参加して、日本のために尽くしたのに、一方には恩給、年金、ほかに色々なものを応援してやりながら、もう一方は韓国・台湾人は国籍がないからと一切やろうとしない。その不条理、これをやっぱり知ってもらいたいです。それでいいのか。

そのうえで、どんなにうまいこと言ってもいったん戦争になってしまったらダメだということですよ。戦争をやっぱり起こさないことだということですね。私たちは、私自身がそうだけど、戦争というものについての深刻さがあまりなかったのかもしれないね。どうして戦争が起こるんだっていう。憎しみやそういうことだけしか考えていなくて、経済原則が底流に流れているんだっていうことはあまり考えなかったです。だから戦争が起きる前に、戦争が起きない努力というものが必要だと考えています。

だから今の若い人たちには、絶対戦争をやってはいけないと言いたいです。戦争がいったん起これば、いくら口で立派なこと言っても意味がなくなってしまいます。戦争はお互い殺し合いっこだからね。だから戦争が起こる前に、外交努力だとか色々して、戦争が起こらないようにしなければいけないんです。

ーどうもありがとうございました。

 

95歳になった李さんは、車椅子生活になった今も法律の成立を訴えて国会での集会に参加している



李鶴来さんの半生をつづった自伝

戦争責任を肩代わりさせられたまま75年ー韓国人元BC級戦犯が語る不条理(2/3)戦犯裁判、そして死刑宣告へ

 帰国途中に引き戻され、死刑宣告を受ける

―敗戦後はどのように戦犯となったのでしょうか?

終戦バンコクで迎えました。連合軍に逮捕され、バンコク郊外の刑務所に収容されました。その後シンガポールの「チャンギ―刑務所」へ送られることになりました。チャンギ―刑務所では、食事の量が少なく、ひどい飢えに悩まされましたよ。それに看守の連合軍兵士による虐待を受けました。その後簡単な取り調べを受けましたが、起訴されることはなく、1947(昭和22)年1月7日、日本へ送還されることになりました。

途中、石炭や水を積むために香港へ寄港しました。寄港中、イギリス軍将校に呼ばれ上陸し、自動車で約30分の刑務所に入れられてしまいました。そこで約3週間過ごしたのち、イギリス軍艦でチャンギ―刑務所へと戻されてしまいました。チャンギ―刑務所のコンクリート塀を再び見上げ、以前にも増した重圧感に押しつぶされそうでした。

チャンギ―刑務所(出典(a))

 

 

そしてその年の3月、刑務所内の小さな建物に設けられた仮設法廷で行われた簡単な裁判で、私は死刑(絞首刑)を宣告されてしまいました。まったく思いもよらないことでした。

―死刑になるのは思いもよらなかったとのことですが、捕虜監視員は直接捕虜に接する中である程度の暴力はあったのでしょうか?

ありましたが、それぞれちゃんと理由があります。仲間とけんかをしたとか、何か盗まれたとか。捕虜の方から、自分たちどうしでは収拾つかないからやってくれと願い出てきたこともあったくらいだから。わけもないのに、ビンタをとったとかそういうのはなかったですよ。

ビンタをするというのは、我々監視員は教育のひとつとして毎日殴られたんだけど、捕虜の習慣は違うものだからね、ビンタされるということに大変な屈辱感を感じるんですよ。我々は軍隊の厳しい軍事訓練を受けて何回も殴られても何にも思わなかったけど、捕虜たちはそれをすごく侮辱に感じました。

捕虜収容所でも、こっちは分駐所で本所というのがあるんだけど、本所に食糧を送ってくれとか医薬品を送ってくれとか言っても、なかなか送ってくれないんですよ。我々がペニシリンをもらいにいくと、この前やったのにもうもらいに来たのかと言われてしまいます。本所では捕虜が一人二人死んでも、なぜ死んだのかということについて無関心でした。そういうような状況で捕虜は死んでいったんですから、捕虜たちが収容所を憎む気持ちはよく分かるんですよ。私たち監視員に何か権限があるように考えられていたのかもしれませんが、何も権限がなかったんですよ。食料の権限、医薬品の権限、労務に明日何名出してくれということについても。

食いものは食えない、病気であっても医療は受けられない。そういった中で大勢の者が死んでいきました。それが事実ですね。そういったことで憎まれたんです。

 

一方的に進められた戦犯裁判

―戦犯裁判というのはどういう形で行われるのでしょうか?

連合国側が裁判をするわけです。連合国側の裁判長だったり検察だったり、全部連合国側ですよ。だからこちらは受け身ですね。具体的にどういったことになっているかよく分からなかったけど、一応取り調べは受けましたよ。裁判は裁判長から全部、向こうの一方的な進行で進みますからね。まあ結局書類だけの裁判ですよ。

―裁判官と直接対面したことはないのでしょうか?

あったことはあったけど、こちらはイエスかノーかだけで、あとは何もないですね。告訴されると特別に取り調べを受ける人たちの集まりがあって、そこに監禁されるんですよ。それで裁判に行く。あの時は裁判なんかどうでもよくて、お腹いっぱい食わしてくれたらそれでいいんだという気持ちでした。

―裁判なんかどうでもいいんだというのはどうしてですか?

裁判をしてもこちらの言うことは聞かないんだから、裁判はどうでもいい。明日死んでもいいからお腹いっぱい食わしてくれればいいと、そういった気持ちになりました。

 

死刑囚が収監される「Pホール」で

―Pホールにいらっしゃったときのお気持ちを伺いたいんですけれども、毎日どういうことをお考えになっていましたか。

Pホールにいて死刑になった仲間たちがいます。ビンタのひとつかふたつ殴ったのはあったかもしれないけど、だけどそれ以上のことは何もやっていないですよ。それを死刑にしたっていうことでね、どうしても私は死んだ仲間たちの無念な想いを少しくらい晴らしてやらないといけないという気持ちです。

朝鮮人軍属の林永俊(イムヨンジョン)という人が死刑執行される時のこと。私に最後に会ったときにね、「広村さん、減刑になってくださることを祈ります。刑務所をもし出れたら、林という人間はそんなに悪い男じゃないことを知らせてください」。と言っていきました。私は死ぬ身であるから、握手して何も言えないで別れました。

チャンギ―刑務所には十坪くらいの中庭があるんですよ。昼間はそこへみんな出て行って碁を打ったりしてるんだけど、死刑執行のある土日の前日にインドの大尉がね、執行命令を持ってくるんですよ。翌日誰々執行すということで、名前を呼び出されるんですね。そうすると初めから殺されるのは承知ではあったけど、やっぱり中の雰囲気がシーンとなっちゃいます。他のホールの人たちも、みんな誰々が殺されるんだということは知っているんですよ。執行は朝だったんですが、だいたい朝8時か9時になれば他のホールからも(お別れの歌として)君が代が歌われてくるのが聞こえました。

Pホール(死刑囚房)(阿部宏さん画)(出典(a))

 

 

誰のために何のために死んでいくのか。それが分からない。

―Pホールに入っていた時は、生まれ育った朝鮮半島のことは思い出しましたか?

日本人の場合は、戦争のよしあしは別として、自分の国のために死んでいくんだと考えることができて、諦めることもできると思います。でも韓国人の場合にはそれがないんですよ。日本の戦争に引っ張られて行って、いくら強制徴用だと言っても結果的には日本の戦争に協力して、戦犯として死んでいくんだと。そういった悔いというものがあるし、それを受けた親兄弟というものはどういった気持ちだろうと。誰のために何のために死んでいくのか。それが韓国人には分からないのです。Pホールに入って一番気になったのはそういうことです。

 

突然の減刑、東京の「スガモ・プリズン」へ

―死刑が減刑されたときは、ある日突然減刑になったということが伝えられたのでしょうか。

そうです。だからなんで死刑から減刑されたのかということが分からなかった。それは日本に帰って(補償)裁判をするまで分からなかったんだけど、裁判の過程で、私と毎晩「明日何名捕虜が足りない」などと言い争っていたダンロップ中佐が証言しなかったということが分かってきました。ヒントクの捕虜収容所で捕虜側の代表だったダンロップ中佐が、とうとう私の非を証明しなかったということのようなんですね。それで私は減刑になったんじゃないかと。

減刑が決まり日本へ送還された後は、スガモ・プリズンに収監されたんですね。

私は1951(昭和26)年8月27日にスガモ・プリズンに入りました。翌年4月に平和条約が発効した後は大分管理がゆるやかになりました。家に行った連中もいたし、巣鴨にいながらバイトに行く連中もいました。

平和条約の発効で私たち植民地出身者は「日本国民」ではなくなります。平和条約11条に「日本国は…日本国民にこれらの法廷(連合国の戦犯裁判)が課した刑を執行する」とあることから、釈放されると期待していました。しかし、裁判当時は日本国籍だったということで、日本政府は私たちの釈放を拒否しました。

 

続く☟

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画像出典:
(a) [図録]韓国・朝鮮人BC級戦犯者問題(発行:韓国・朝鮮人BC級戦犯者「同進会」、2014年4月26日)
 

戦争責任を肩代わりさせられたまま75年ー韓国人元BC級戦犯が語る不条理(1/3)生まれから終戦まで

太平洋戦争当時、日本の統治下にあった朝鮮半島の人々は、日本の軍事行動に協力を求められました。しかし、戦後の対応は日本人と区別され、不条理と言わざるを得ない境遇に置かれてきました。今回、94歳となる李鶴来(イ・ハンネ)さんにお話を伺いました。

(インタビュー:2019年11月15日)

 

李鶴来(イ・ハンネ)さん
1925(大正14)年2月韓国全羅南道宝城郡生まれ。戦時中日本の軍属として「泰緬鉄道」建設に駆り出された連合軍捕虜の監視にあたる。敗戦後、監視員当時の捕虜への虐待等を問われ、戦犯裁判にて死刑宣告されるが、その後減刑され、釈放される。

 

 

 

 

 

日本統治下での幼少期

―李さんのお生まれについて聞かせてください。

私の家は農家でした。きょうだいは弟と妹がいました。私が生まれる15年前(1910年)に、日本による韓国併合が行われました。併呑(へいどん)という方がふさわしく、日本風の名前を強制する「創氏改名」によって、私の家は「廣村(広村)」(ひろむら)と名乗ることになりました。これは一族の発祥の地である「廣州(広州)」を忘れないようにとのことからです。

当時朝鮮で日本人は大いばりで、父が働く工事現場に母と一緒に弁当を届けに行った時、日本人の現場監督がこちらに向かって立小便をしたりしました。子どもながらに非常識な侮辱に腹が立ったのを覚えています。

 

日本軍の捕虜監視員へ

―戦争にはどのような経緯で巻き込まれたのでしょうか?

太平洋戦争開戦から6か月が経った1942(昭和17)年5月、ちょうど前の仕事を退職したタイミングで、面事務所(朝鮮の村役場)に南方の捕虜監視員の仕事が来ており、面事務所から試験を受けるように言われました。

日本軍は開戦当初、東南アジアで大勢の連合軍捕虜(俘虜)を獲得しましたが、その対応に苦慮し、朝鮮全土から約3,000名の捕虜監視員を募集したのです。郡・面ごとに人数割り当てが来ており、建前上は自発的な応募であったものの、実質的に強制徴用といえたと思います。

連合軍捕虜監視員募集に関する新聞報道。見出しの「半島青年」は朝鮮人青年のこと。
京城日報 1942年5月23日)(出典(a))

 

 

試験に合格後、釜山で2カ月軍事訓練を受け、8月19日に釜山(プサン)から船で出発し、タイの捕虜収容所へ送られました。日本軍がビルマ(現ミャンマー)での作戦のための補給路として「泰緬鉄道」(たいめんてつどう=泰(タイ)と緬(ビルマ)を結ぶ鉄道)を建設することになり、労働力として大勢の捕虜が必要になったのです。捕虜収容所はタイ側とビルマ側にあり、私はタイ側の収容所の監視員となりました。

捕虜監視員たち。一番左が李鶴来さん。(出典(a))
 

 

―捕虜の様子はどうでしたか?

9月9日頃、私が初めて目にした連合国捕虜は千数百名もいたように思えました。つかまって間もないので体格もよく、私たち監視員が見上げるような大きさです。大勢の欧米人の捕虜には恐怖感すら覚えました。

―捕虜監視員の仕事とはどのようなものだったのでしょうか?

最初の頃の仕事としては、宿舎の設営がありました。一棟に50人くらい入る宿舎で、ニッパヤシの葉で屋根をふき、竹で床を張った簡単なものを作りました。また、警備も主な仕事の一つでした。入口の衛兵所や所内の歩哨勤務です。歩哨は所内を巡回して捕虜の動静を確認し、逃亡を防ぐのが仕事です。

バンポンで捕虜監視員の宿舎を建てている様子(出典(a))

 

 

「泰緬鉄道」建設

―そうして鉄道建設に携わっていったんですね。

はい。泰緬鉄道建設に従事する日本軍の「鉄道隊」が、捕虜と現地の労務者を使いながら、路盤構築・レール敷設の工事を進めます。捕虜収容所側は捕虜を管理し、鉄道隊の要求する作業人員を引き渡すことになっていました。

タイ側の起点の「ノンブラドッグ」から161㎞地点の「ヒントク」という現場で捕虜の監視を行いました。朝鮮人の私が、作戦や戦況を知る機会はなく、とにかく目の前の事態に対応することと、上官の命令が絶対であった日本軍の中で何とか立ち回ることに精一杯。任務に忠実であろうと懸命でした。

泰緬鉄道のルート
(作者:W.wolny をhistory for peaceが追記)

 

 

鉄道建設が進むにつれ、タイの奥地へと私が捕虜監視員を行った収容所も何か所か移動してきました。1943(昭和18)年2月には、捕虜500人を連れて朝鮮人軍属6名と共に、泰緬鉄道起点から161㎞地点のヒントクへ移動しました。ジャングルの真っ只中です。ヒントクは泰緬鉄道の中でも最難関の場所とされ、捕虜たちは大変過酷な労働を強いられました。泰緬鉄道が完成するこの年の10月まで、ヒントクで捕虜の監視を行いました。

ヒントク分駐所 宿舎等配置図(李鶴来さん画)(出典(a))

 

 

最初の三カ月は私が事実上の責任者で、分遣所との業務連絡や命令の伝達、作業割り当て表に基づく人員の配置、食糧の支給手続きなどの仕事がありました。作業現場には1回ほどしか行ったことがありません。捕虜が鉄道隊で殴られて死んだと言われても、どういうことがあったか分からないんです。監視員は6人だけで、夜は交代で収容所の監視、昼は現場に2名ほど送り監視しました。

 

捕虜への体罰と過酷な労働環境

―捕虜たちに対する体罰などはあったのでしょうか?

捕虜たちが規則違反をすると、2~3回ビンタ(平手打ち)をして反省をさせました。日本軍では教育の方法として罪悪視されていなかったのでそうしたのですが、捕虜にとっては大変な恥辱だったことを当時の私は知りませんでした。

ヒントクでの捕虜側の代表はオーストラリア軍捕虜のダンロップという中佐で、軍医でした。私は作業人員を確保するため、ダンロップ中佐に協力を要請する立場でしたが、彼は仲間をかばおうとし、言い合いをすることもありました。裁判資料には「ヒロムラは終始ダンロップと口論していた」と記されていたそうです。

―建設現場はどのような環境だったのでしょうか?

捕虜たちが鉄道建設に駆り出されていたジャングルは、タイでも有名な病原菌の巣窟でした。マラリアアメーバ赤痢(せきり)、コレラなどの伝染病に加え、熱帯性潰瘍(かいよう)という怖い病気もありました。

5月からの雨季には連日激しい雨が降り続き、道路は泥沼のようになりトラック輸送などできません。川の水かさが増して船で食糧を運ぶこともできなくなってくると、栄養失調になった捕虜が死んでいきました。

彼らはよく下痢をし、労働で疲れ果てていました。赤痢にかかっている者は多かったですが、薬なし、休養もなし、でした。今思うと本当にかわいそうなことをしたと思いますが、当時の日本軍は捕虜を人間的に扱うことはなく、捕虜は無視された存在でした。ジュネーブ条約に捕虜の人道的取り扱いの規定があることはまったく教えられませんでした。

タイの捕虜収容所のオーストラリア人とオランダ人。脚気(かっけ)に苦しんでいる。
(出典(b))

 

 

捕虜の宿舎は雨漏りがし、服は捕らえられた際に彼らが持っているものだけだったので、後半期にようやく少し支給した程度でした。それも現地で押収したものです。ふんどしだけという捕虜もいました。捕虜はよく「靴がない」と苦情を言っていましたが、ごつごつした岩肌での作業ですし、熱帯性潰瘍などで皮膚がただれているところに傷ができるのですから、靴のあるなしは大変なことだったのです。

鉄道建設はインパール作戦のために1943(昭和18)年10月までに完成させよと命じられていました。大岩石地帯や大きな河川に架ける橋もあり、普通ならば6~7年かかる工事だったそうですが、それをおよそ1年3カ月、つまり5分の1程度の期間でやれという命令でした。さらに、途中で完成を2カ月早めろという命令まで出ていたそうです。

難所の工事もツルハシ、ノミ、シャベルなどの道具を中心にした人海戦術です。鉄道隊からは毎日作業人員の割り当て表が届きますが、病人が続出している収容所側はそれだけの人数を揃えることはできません。病人でも症状の軽そうな者を選んで作業に出さざるを得ませんでした。そして泰緬鉄道は、捕虜と現地労務者合計で4万5千人といわれる犠牲を出し、ついに完成しました。

泰緬鉄道建設で使われていた道具(出典(b))
 

 

泰緬鉄道(出典(a))





画像出典:
(a) [図録]韓国・朝鮮人BC級戦犯者問題(発行:韓国・朝鮮人BC級戦犯者「同進会」、2014年4月26日)
(b) wikimedia, public domain

【開催報告】<見る・歩く・話す>どう残す?戦争の記憶 ~東京大空襲をもとに考える~(2020年2月2日開催)

2020年2月2日、<見る・歩く・話す>どう残す?戦争の記憶 ~東京大空襲をもとに考える~を開催しました。

10代から70代までの16名にご参加頂きました。そのうち14名が高校生、大学生、社会人の10代~20代の方でした。

開催概要はこちら⇒ 【満員御礼】<見る・歩く・話す>どう残す?戦争の記憶 ~東京大空襲をもとに考える~ 2020年2月2日開催

<企画の背景>

戦後75年が経とうとしている今、戦争体験を直接語れる方も減り、戦争の歴史をどのように継承していくかが課題になっています。そのような中、3月10日の「東京大空襲」では一晩で10万人以上の犠牲を出したにもかかわらず、東京大空襲を専門に扱う公的な慰霊施設および資料館がないことから、今でもあり方をめぐって議論が続いています。

今回のイベントでは、東京大空襲に関連するふたつの施設を見学したうえで、これからの慰霊施設および資料館のあり方を考えました。

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<企画概要>

・日時:2020年2月2日(日)13:00~19:00

・場所:都立横網町公園東京大空襲・戦災資料センター ほか

・対象:主に高校生・大学生

※30歳代以上の方はディスカッションは見学

・主催:history for peace

 

<プログラム>

◆第一部 施設見学(13:00~14:20)

第一部では、以下の二つの施設に分かれ、見学しました。参加者は各施設で集合しました。

(1)東京都立横網町(よこあみちょう)公園

(2)東京大空襲・戦災資料センター

横網町公園は公立の施設、東京大空襲・戦災資料センターは私立の施設であり、この二つが現在東京大空襲がどのようなものであったかを伝える代表的な施設となっているため、これらの施設を見学することにしました。

(1)東京都立横網町公園

関東大震災と東京空襲の犠牲者を慰霊する「東京都慰霊堂」、震災と空襲がどのようなものだったのかを伝える「東京都復興記念館」などの施設がある公園です。参加者は最初に東京都慰霊堂を見学。慰霊堂では関東大震災東京大空襲横網町公園のなりたちを解説するDVDも観ました。その後復興記念館では、2階の東京大空襲の展示コーナーを中心に見学しました。

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(2) 東京大空襲・戦災資料センター

東京大空襲をはじめとする空襲や戦争による一般民間人の被害の実相を明らかにし、それを伝えていくことを目的に設立された民間の施設です。東京の空襲被害だけではなく、日本が中国に対して行った爆撃や、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の空襲なども伝えていることが特徴です。参加者は東京大空襲を伝えるドキュメンタリービデオを観た後、展示を見学しました。

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◆第二部 インプット(15:20~16:15)

施設見学の後、錦糸町にある会議室に移動しました。そこで、施設見学の内容を掘り下げ、ディスカッションの参考となる情報をインプットしました。

第二部の内容は以下のとおり。

(1)施設見学の感想共有

2人1組を作り、それぞれ5分ずつ自己紹介、自分の観た施設の説明、感想共有、を行いました。これを2回繰り返しました。

こうすることで、自分が行っていない見学先についても知ることができるようにするのと、自分の中で見学の感想をしっかり認識することを狙いました。

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(2)他の地域の慰霊・資料館のあり方の紹介

東京の施設のこれからを考える参考として、広島・沖縄・大阪・名古屋の各地域の慰霊施設・資料館の様子を共有しました。このうち、広島・沖縄・大阪は公立の施設を紹介し、名古屋は民間の施設を紹介しました。

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(3)東京大空襲に関する慰霊施設や資料館ができた経緯

最後に、東京における空襲の慰霊施設・資料館をめぐる動きを、戦後直後から現在にいたるまで説明しました。


◆第三部 ディスカッション(16:20~18:40)

戦争の記憶をどのように残していくか、以下のテーマに対し、賛成派と反対派に分かれてディベート形式(※)でディスカッションを行いました。

ディベート:ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと

 

テーマ:「東京大空襲を専門的に扱う公的な平和資料館・慰霊施設」は必要か

 

<このテーマを選んだ理由>

今回見学した「都立横網町公園」は公的施設ですが、元々は関東大震災の慰霊施設・資料館でした。そこに東京空襲を加えた形です。また、「東京大空襲・戦災資料センター」は東京空襲をメインで扱っていますが、私立(民間)の施設になります。広島、長崎、沖縄など、太平洋戦争で大きな被害を受けた地域は、それぞれ「公的な」「その地域の戦争被害専門の施設」がある一方で、東京にはありません。そのことについて考えることで、戦争の記憶をどのように継承していくべきなのか、深く考察できると私たちは考えました。

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<ディスカッションの進行方法>

ディスカッションは以下のような流れで進みます。

(1)チーム分け

テーマに対して賛成・反対の二つのチームに分かれます。チーム分けは主催側で行い、必ずしも自分と同じ意見のグループに参加できるとは限りません。

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(2)準備時間

各チームで、主張する「論点」をまとめます。その際、以下の5点を考えながら、論点を導くようにしました。

どうして「東京大空襲」なのか

②そもそも平和資料館・慰霊施設は何のためにあるのか。(=施設を作ることで達成したい目標は何か?)

③「公的」な施設である必要性は?(=「公的」であることにメリット・デメリットはあるのか?)

④施設ができることによって誰にどんな影響が出るのか?(損する人・得する人)

⑤施設を作る以外に②の目標を達成する方法はあるか?

論点が決まったら、発表者を決めます。今回、なるべく全員が発表をするようにしました。

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(3)ディスカッション本体

賛成・反対それぞれのチームから、順番に「論点」(主張する意見)と、論点に対する反論を述べていきます。これを2回ずつ繰り返します。

反対チームの論点①:

施設を建てなくても、学校に体験者を派遣するなど、教育などで代用することが可能。

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➡賛成チームの反論:

戦後時間が経ち、体験談を語れる人も減っている。またこれから学校教育で行うとすると、卒業した人(および今既に大人の人)が受ける機会がない。

賛成チームの論点❶:

長く維持していかないといけない施設なので、継続性を担保するには費用面で公的であることがふさわしい。

➡反対チームの反論:

公的施設であっても経済的に維持し続けられるとは限らない。赤字の施設は継続できない可能性もある。

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反対チームの論点②:

公的施設の実現は費用面でハードルが高い。

➡賛成チームの反論:

広島のように、観光の目玉のひとつとして育てることも可能。観光客からの収入も見込むことができ、投資として考えることができる。

賛成チームの論点❷:

公立の施設を作ることは、公(おおやけ)として戦争の責任を明らかにすることができる。諸外国に対する意思表明にもなる。

 

➡反対チームの反論:

責任を果たす方法は施設を作ることに限られるものではない。他の方法でも行うことができる。

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これでディスカッションは終わり、すべてのプログラムが終了しました。

慰霊施設や資料館をどう残していくか、普段あまり議論することはないだけに、難しい面もありましたが、とても活発な議論が交わされました。

参加者の方からは、「ディスカッションがとても刺激的だった」「東京大空襲のことを深く考えることができてよかった」といった意見をたくさん頂きました。

一方で、「テーマが難しかった」「進行がバタバタしていた」などの意見も頂きました。これらの意見を今後の運営に生かして、よりよい企画を行っていきたいと思います。

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<メディア取材>

当日はNHKに取材を受け、翌日朝のニュースで放送されました。

“戦争の記憶 どう伝える?” 若者が考える催し 東京(2020年2月3日 8時08分 NHK NEWS WEB)

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【満員御礼】<見る・歩く・話す>どう残す?戦争の記憶 ~東京大空襲をもとに考える~ 2020年2月2日開催

※定員に達したため受付を終了させて頂きました。たくさんのお申込みどうもありがとうございました。

終戦から75年の節目となる今年。
あの戦争の惨状を直接語ることのできる人も少なくなり、
戦争の記憶をどう伝えていくべきか、今問われています。

3月10日の「東京大空襲」は、2時間あまりで約10万人の犠牲者を出しました。
広島の原爆での死者数約14万人、同じく長崎は約7万人と言われています。
広島・長崎の原爆と同規模の被害にもかかわらず、
東京大空襲を専門に扱う公的な慰霊施設・資料館はないことから、
現在でもその慰霊のあり方と資料の残し方をめぐって議論が続いています。

今回、フィールドワークとディスカッションを通じて、
戦争の犠牲とどのように向き合い、出来事を後世に伝えていくのか
若い世代に向けたイベントを開催します。

参加にあたって特別な知識は必要ありません。
みんなで勉強しながら考えていきます。
ぜひご参加ください。

※広島と長崎の原爆の死者数…1945年12月末までの死者数

▼お申込みはこちらから(※受付終了しました)
http://bit.ly/tokyo-air-raid-2020

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空襲により焦土と化した東京。両国駅付近上空から南を見る。

【開催概要】

・日時:2020年2月2日(日)13:00~18:30
・場所:都立横網町公園東京大空襲・戦災資料センター ほか
・定員:20名
・対象:主に高校生・大学生
※参加に年齢制限はありませんが、30歳代以上の方はディスカッションはご見学頂きます。
・参加費:大学生以下300円 一般500円
・備考:移動交通費は自己負担となります。
・主催:history for peace

▼お申込みはこちらから(※受付終了しました)
http://bit.ly/tokyo-air-raid-2020

【プログラム】

<第一部 フィールドワーク>

「東京都立横網町公園グループ」(※1)は横網町公園に集合。
東京大空襲・戦災資料センターグループ」(※2)は戦災資料センターに集合。
スタッフ同伴でそれぞれの施設を見学いただきます。

注:どちらの施設の見学を希望するかは申し込み時に選択できますが、申し込み人数によってはご期待に沿えない場合もあります。

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見学後、会議室(錦糸町駅前)へ移動します。

※1 東京都立横網町公園関東大震災と東京空襲の犠牲者を慰霊する「東京都慰霊堂」、震災と空襲がどのようなものだったのかを伝える「東京都復興記念館」などの施設がある公園です。
東京都墨田区横網2-3-25 https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

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※2 東京大空襲・戦災資料センター東京大空襲をはじめとする空襲や戦争による一般民間人の被害の実相を明らかにし、それを伝えていくことを目的に設立された民間の施設です。
東京都江東区北砂1-5-4 https://tokyo-sensai.net/

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<第二部 インプット>

会議室では、施設見学の内容を掘り下げ、ディスカッションの参考となる情報をインプットします。

①施設見学の感想共有
②他の地域の慰霊・資料館のあり方の紹介(広島・長崎・沖縄等)
東京大空襲に関する慰霊施設や資料館ができた経緯

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<第三部 ディスカッション>

戦争の記憶をどのように残していくか、設定されたテーマに対し、賛成派と反対派に分かれてディベート形式(※)でディスカッションを行います。テーマは当日発表します。
参加者全員がそれぞれ半数ずつになるようにグループ分けを行います。

ディベート未経験でも大丈夫。簡略化したやり方で、初めてでも問題なくできるようにしています。また通常ディベートは勝敗を決めますが、今回は決めません。勝ち負けではなく、どのような意見があるのかを深く考えるためにこの方法を採用しています。

ディベート:ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと

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【申し込み】

※受付終了しました

以下のリンクからお申込みください。
http://bit.ly/tokyo-air-raid-2020
(申し込み先着順)

 

【その他】

当日テレビ等マスメディアの取材が入る場合があります。ご了承ください。

 

【主催団体について】

history for peace”は、第二次世界大戦の継承活動を通じ、これからの日本と世界が平和であるために若い世代が何をすべきかを考え、行動に移すことを目的とした団体です。過去には以下のイベントを開催しました。

【開催報告】Memories of War 〜生の声で聴く6テーマの戦争体験〜(2019/8/4)

【イベント開催報告】「歩いて感じる。東京大空襲74周年イベント」-2019/3/9

【12/9開催】東京空襲の体験を聞き、交流する会

【2018/8/5(日)開催】73年経っても終わらない戦争~空襲被害の人々に、国はどう向き合ったか~

 

【連絡先】

history for peace
E-mail: historyforpeace@gmail.com
URL: http://historyforpeace.org/

【体験談】ラバウルとマニラ。壮絶な戦場を体験された二人のお話

こんにちは。histoy for peaceです。愛知県に住む方より、二人の叔父様の戦争体験が送られてきました。手書きの便せんで送られてきた、生々しい戦争の体験。ぜひ多くの方に知ってもらいたいので、ご紹介します。

 


私の二人の叔父の話をします。叔父たちにはもう一人兄がいましたが、病死して以下の二人が赤紙で兵隊に取られました。

次男(政雄) 1921(大正10)年1月20日 生
三男(三郎) 1923(大正12)年8月1日 生

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二人同時に赤紙で招集

1941(昭和16)年の秋近くに薄れた紙二枚が届きました。叔父二人は何のことかわからずいると、父が涙を流したそうです。そうです、赤紙だったんです。大学、高校とその頃では難しい学校に入学、就職も決まっていたそうです。長男は今でなら治る可能性大なのに、結核で病死したばかりだったんです。
次男政雄は広島の呉の方へと入隊。三男の三郎の方はラバウルへ出兵。もう家には子どもだった私の父とおじいさんだけの男二人となってしまい、寂しさを覚えていると。悲しかったと。

 

三郎はラバウル

三郎の方は、福井県に召集され、北九州の門司港から出港し、ラバウルに向かいました。輸送船が到着する前に米国の攻撃にあい、物資届かず、苦心の毎日。ラバウルは、やはり米国からの空襲がひどく、水木しげるさんと同じ地で苦しかったそうです。食糧は無く、兵器は無く、病人ばかりの日本兵に、爆弾の雨。人肉、草木、靴の皮まで食べてしのいだそうで、片腕を無くした人が沢山いたと聞きました。兵の数、武器の数、船の数と、圧倒的な物量の差で次第に死を感じていったそうです。しかし、三郎の方は米国の空襲が長めではなかったそうで、助かり復員された方もいました。皆、ボロボロだったそうです。

大きい体で力も強く、日本人なら誰にも勝てる弟三郎も、弾や火には、危険をひしひしと感じたとのこと。しかし、義理と人情の男。逃げはしなかったということです。


政雄は呉からフィリピンへ

1941年12月1日、広島の呉に三郎は編入されました。私の父は子どもながらに広島まで一宮から何十時間かけて面会に行き「いい子でいてよ。兄ちゃんすぐ帰るから」。と言われたそうです。父は叔父に会いに、おじいさんと何十時間とかけ、愛知から呉へ三回程、面会に行ったそうです。色々調べて館山砲術学校へ勉強にいき、二年ですぐに一等水兵まで昇ったそうです。まだその頃は国内は普通の日々を送れていました。

政雄は何年かで水兵長になり、呉に任務していました。1944(昭和19)年の10月頃から部隊司令部に入り、日本にいる予定と話していたそうです。しかし、戦況がひどくなり、ラバウルあたりから様々な戦闘を経て、フィリピンのルソン、マニラへ米国が攻めてきました。日本軍は太平洋戦争開戦当初は勝利を重ね、フィリピンからアメリカを追い出しましたが、マッカーサーはその時「必ず戻ってくる」と言ったそうで。そのことが現実になったのです。

そこで政雄は、臨時に作られた第31特別根拠地隊というマニラ防衛の部隊に配属されました。政雄は1944年10月頃から家族と話もしておらず、マニラ市街地へ向かうことになったそうです。日本兵とフィリピンの方のみさかいが無く銃でマニラを占領。しかし前記のとおりマッカーサーが上陸、逃げ廻るにも食料もなく、多くの日本兵やフィリピンの方が亡くなりました。その中に政雄はいたと認定されて、何一つ遺骨も紙もありません。父から聞いた悲しすぎる話です。そして国に頼むとマニラから日本に復員した人もいると聞き、三年手がかりを探しました。しかし、日本に1冊の本と軍歴書のみ。そして今に至り、その政雄は世に1度も出る事なく墓もない、人となりました。

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政雄さんの最期を記した軍歴書

1945(昭和20)年2月26日?本当なのだろうか?

戦死。帰ってきて 兄ちゃん。

※特別根拠地隊…占領地などの海軍基地を防衛・管理する臨時の部隊。

【横浜空襲】焼夷爆弾が家に直撃-13歳が体験した「横浜大空襲」(2/2)

焼夷爆弾(しょういばくだん)が家に直撃

-そうだったんですね。空襲はどのようなものだったのでしょうか?

これは戦後調べて分かったんですが、横浜の空襲では、サイパン島から大型爆撃機B-29が500機、硫黄島から援護(えんご)をするP-51という戦闘機が200機やってきました。かなり戦闘機による機銃掃射があったそうだけど、私の方には来なかったです。だけど我が家は31㎏の焼夷爆弾が直撃してしまいました。僕は見てたんですよ。物干しに登って。空から落ちてくる真っ黒の豆粒がだんだんグレーになっていった。これはいけない、ということで物干しから降りました。ちょうど家の角に来たら、家の中に落ちたんです。ドッカーン、バリバリバリという音を立てて。瓦屋根ぶち抜いて、洋ダンスぶち抜いて、畳ぶち抜いて、ドカーン、です。

周りの塀は全部倒れていてね。爆風がひどかったですよ。でも幸いなことに、その場にいた母、祖母、叔母、妹、そして私の5人は皆無事でした。本当に命拾いしたと思いますよ。柱時計が9時32分で止まっていたから、9時ちょっとすぎから燃え始めたと思います。ふつう火事は柱とかは残るでしょ?なのに焼けてしまって何にも残らなかった。ガラスも1000度以上になると溶けてしまうらしいから、あの一帯全部が焼けて溶けてしまったようです。

※この日野村さんのお宅に落ちたのと同じものと思われる「M47A2焼夷爆弾」(31.5㎏)が平塚市博物館のホームページで見れる。

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野村さんは当時住んでいた家を精巧なジオラマで再現

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野村少年が物干し台に上って米軍の飛行機を見ていると…

 

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 指をさしている場所に焼夷爆弾が投下、爆発炎上した

 

-自分の家に爆弾が落ちるなんて、想像もつかないですね。

食らってみないとあの怖さはわからないね。全部燃えちゃった。僕のもう一人仲のいい友達も、はじめ防空壕入っていたんだけど、そこは危ないというので家族を連れて海に逃げた。それで助かったんです。でも他の同級生は両親と防空壕でやられちゃった。


防空壕は各家庭にあったんですか?

そうです。最初は、各家庭は畳上げて、その下に防空壕みたいの作れって言われてたんですよ。多分ヨーロッパで軍部がそういうの見てきて、地下室がいいとなったんじゃないかな。日本には地下室なんてないから、言われた通り畳上げて作りました。でもそれだと、焼夷弾落ちてきたらみんな家ごと焼け死んじゃうんですよ。それで外に防空壕作るようになったんです。


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野村さんのお宅の庭にあった防空壕ジオラマで再現されている

 

【横浜大空襲】

1945(昭和20)年5月29日午前9時頃、マリアナ諸島の基地より飛来した517機ものアメリカ軍のB-29 大型爆撃機により、横浜市は大規模な空襲を受けました。投下された焼夷弾の量は約44万発、約2,500トン。約300機のB-29で約33万発、1,700トンの焼夷弾が投下されたと言われる同年3月10日の東京大空襲を上回る規模の空襲でした。中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれ、死傷者・行方不明者あわせて約1万4千人、被災家屋約8万戸を出し、市街地の44%が被害を受けました。

出典:横浜市ホームページ

 

「命があればなんとかなる」

-空襲後はどのような生活を送っていたのでしょうか?

空襲の翌日あたりから、そばにあるお寺の別院にリヤカーで真っ黒けになった遺体を運び込んで荼毘(だび)に付しているのを見ました。火葬場もみんななくなっちゃったんでね。死体をたくさん見ていると、あまり怖いという感情はなくなっちゃうんですよ。夜はなんとも言えないにおいになりましたよ。焼け跡のにおいと、焼夷弾の油のにおいと、遺体のにおいと。なんとも言えないにおいでした。

-全部焼けちゃうという感覚が今の私たちには分からないです。近所の人はどう声かけあうんですか?

何にも残らないですよ。全部焼けて、溶けて残らない。みんな憤慨なんかしていないんですよ。日本人はみんな「しょうがない」って最後にはなるね(笑)。助かってよかったね、とも言わない。三々五々焼け跡に集まってきて、おたくも焼けちゃったね、っていう程度なんですよ。日本人はおとなしいんですよほんとに。それと、空襲と言っても、辛酸をなめた人と全然影響を受けなかった人とで、状況は全く異なってきます。

大事にしていたものが一瞬でなくなっちゃうんですから。僕は飛行機が好きだったから家の中に模型ぶら下げてあったり、子どもの頃もらったブリキのおもちゃなんかもとってあったけど、みんな焼けちゃったんです。それから、物というのはそういう時になくなっちゃうんだということが分かりました。大事にもするけど、あまり物に執着しなくなった。よく命あっての物種というけど、命なくなったらなんにもなくなっちゃう。命があればなんとかなるんです。だから僕の仲間は、案外そういうところみんなしぶといというか、健康さえ恵まれていれば、あまりみんなくよくよしないんですね。

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当時野村さんのお宅があった場所。今は閑静な住宅街になっている。

 

―その頃はご飯は食べれましたか?

焼け出されてからは食べるものはなんにもなかったです。やっぱりね、ひもじいっていうのはほんとにひもじい。やたら腹減っちゃうんですよ。ただね、農家に手伝いに出ると白米、味噌汁、たくあんが出たんです。ところが小作農(豪農の下で土地を借りて耕していた人たち)のところに手伝いに生かされると、芋だとかそういうのしか出なかったですけどね。

―やはり食べ物は極端に減ったんですね。その中でも食事はしていたと思うのですが、どんなものを食べていたのでしょうか?

あまり覚えていないんですけど、メリケン粉をこねて団子状にしてお湯に入れ、すいとんにしたり。うまいものじゃないです。品数は少なかったですね。大根とか、野菜を煮たようなものを食べていました。かぼちゃなんかは切って油で炒めて食べました。かぼちゃとなすばかり食べていたから、ずっとかぼちゃとなすを食べたくなくなりました。なすは油で焼いて味噌をつけて。品数がなくてそればっかり食べていたので、飽きちゃいました。

戦後は残ってた米くらい。あとは雑炊、イモ食ったり。配給は戦後2年間、中学3年くらいまであったと思います。

-戦後もしばらくは食べ物がなかったんですね。ご家族はどのような状況でしたか?

私の父は予備役の陸軍少尉だったんですが、1944(昭和19)年に召集令状が来て、43歳で軍隊にひっぱられました。中国の温州というところにいて、幸い戦闘には参加せずに生きて帰ってきました。1945(昭和20)年の11月に部隊のあった広島に戻ってきて、翌1946(昭和21)年の2月に家に帰ってくることができました。

戦後もあまりつらいとか深刻にならなかったですね。若いっていうのはやっぱり強いです。父が帰ってきましたしね。親が帰ってこなかったら経済的には相当深刻になったと思います。母子家庭になっちゃったら大変だったろうと思うんです。逆に僕らが死んじゃって親父が帰ってきたら、家族が誰もいないという状況ですからね。裏返しの状態。命のありがたみっていうのは助かってみて初めてわかるんですね。

-空襲で家が無くなってしまいましたが、その後どのように過ごされましたか?

母の姉が栃木県今市(いまいち)市に疎開していたので、もともと6月からそこに疎開するつもりで荷造りしていたんです。でもその荷も全部焼けちゃった。身の回りの物だけで今市に母、妹と三人で疎開しましてね、県立今市中学校に1年として入りました。そこで終戦を迎え、また三学期に横浜に戻ってきましたよ。

ホテルニューグランドはずっと営業されていたんですか?

戦争中もやっていましたよ。戦争が始まるとアメリカ人は帰ったり、軟禁されたりしていなくなりました。その後はドイツ人、イタリア人、それから外交官とか、フィリピンの占領地から日本に着いた人たちが利用しました。ある時になると、東芝の徴用工の人たちに貸しちゃって。12時間交代の2直でやってたんです。そういう人たちが泊ってたんで、1945年5月29日の空襲の時は、焼夷弾が裏の2階建ての家にバラバラ落ちたんですけど、みんなで放り出して消しちゃったんです。ニューグランドも窓でも空いてたら火が入って焼けちゃったんでしょうけど、全部閉まってたから焼けませんでした。

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現在のホテルニューグランド

終戦時、ニューグランドはGHQに接収されていましてね。マッカーサーが太平洋戦争終戦の調印をするために3日間宿泊したんですよ。私の祖父が民間人として最初に夫婦でマッカーサーに会ったんじゃないかと思います。

※太平洋戦争終戦の調印…1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリの艦上で行われた

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マッカーサーが宿泊した部屋は「マッカーサー スイート」として今も使われている

 

目の前にいた人がいなくなる。それが戦争

-今、当時のことを振り返られて、どんな風に感じますか?

戦争っていうのは、つまり人が亡くなるっていうことなんですよ。目の前にいた人が、自分の意志に関係なくいなくなっちゃう。それがいけないことなんです。イデオロギーに関係ない。あいつもいなくなったな、っていうのは経験してみないと分からない。その立場にならないと分からないと思います。それで、20年くらい前から、戦争体験のことを話してもらいたいと言われて話すようになりました。

―戦争の体験をお話される際、色々な資料をまとめられたりしていますが、どんな思いでやられているのでしょうか。

思いというか、当時の記憶を新たにしているんでしょうね。自分自身でこういうことがあったっけと思って調べると、新たに気付くこともあって。自分の思い込みがなくなって、裏を取ることによって記憶違いがなくなります。

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野村さんは当時の状況を説明するためにたくさんの資料を集め、説明の際使いやすいように拡大して保存している

―分かりやすくパネルにまとめられたり、ジオラマも作成されていて、本当に伝えるための情熱が伝わってきます。

話すだけだとよく伝わらないでしょう。それに話すことが本当かも分からない。だからこうやって調べたものをまとめて見やすくしています。

-素晴らしいですね。ぜひそのお取り組みを今後も続けてください。私たちもお手伝いします。ありがとうございました。

 

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