history for peace’s blog

このブログでは、history for peace がイベントのお知らせや活動報告を随時配信していきます。

【体験談】回天特攻訓練を受けた兵士の自分史

 予科練に志願

私は大正十五(一九二六)年十一月四日佐賀県杵島郡白石町に男五人女三人兄姉弟の四男として生まれました。父は身体が弱かったので農家の畑仕事には向かないと、旧制熊本第五高等学校から東京帝国大学を卒業して教員となりました。

「男の子は兵隊さん。女の子は看護婦さん」という時代でしたので、旧制佐賀県立鹿島中学四年生の時に陸軍士官学校を受験しましたが回答を二問間違えましたので落ちてしまいました。十六歳になった昭和十八年十一月、軍歌「若鷲の歌」にある『七つボタンは櫻に錨』(注①)に憧れて、海軍第十三期甲種飛行予科練習生(予科練)に志願しました。佐世保海軍基地で受験、適性検査、体格検査とも見事合格。歓呼の声と日の丸の旗に送られて故郷の駅を出発、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊しました。

隊内での移動はすべて駆け足、歩くことは許されませんでした。辛かったのはモールス信号の受信で、欠落三字出すとバッタ(軍人精神注入棒)と呼ばれる樫の棒で、間達えた数だけ尻を打たれて尻が真っ赤になり、便所でしゃがむ時の激痛が忘れられません。

予科練の課程も一年で終了し、次の課程である実践部隊(飛行練習隊)へ派遣される直前、昭和十九年八月一万二千名の練習生が集められました。隊長が「戦局はますます厳しくなってきた。この戦局を挽回させるには新兵器が必要となり、我が海軍が開発した、特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもので、この中から搭乗員百名を選抜する。希望するものは名前の上に◎をつけること」と言われました。私は飛練に入隊しても、赤トンボ(旧日本陸軍複葉機「九五式一型中間練習機」)まで特攻隊に出撃していると聞き、それなら新兵器のほうが面白いと思って◎をつけました。選考基準は意志強固、機敵性、融通性、家族編成が長男以外のことなどであったようです。

 

回天搭乗員に

奈良分遣隊から広島県大竹市の呉海兵団大竹対潜学校で座学を受け、人間魚雷『回天』の発祥地、山口県周南市(旧・徳山市)の大津基地に派遣され、上陸するやいなや『回天』が目の前に横たわっていました。

先任将校の訓示曰く「お前たちは幸せ者だ。一機一億円もする棺桶に入れるのだからだ。」と。当然予科練生には兵器の値段は分かりませんし、現在の貨幣価値から考えるとべらぼうな金額になると思いますが、そんなに高価なのかなと当時はそのまま信じていました。

『回天』は九三式無航跡酸素魚雷を改造したもので、敵艦に体当たりして自らの命と引き換えに戦果を得る、命中すれば空母も撃沈させる威力があります。動力は液体酸素と石油、内部からのハッチは開閉不能、特眼鏡(潜望鏡)あり、伊号丁型伊三七〇潜水艦の甲板に固定されます。最高航行速度三〇ノット、航続距離二十三キロメートルです。魚雷は潜水艦長が潜望鏡を使って敵目標艦に向う方向と距離を観測して発射しますが、観測に誤差があれば不発となります。しかし、回天は人力操縦と特眼鏡で運航しますので、万が一敵目標艦を外しても、縦舵を使って三六〇度回転し二回、三回と観測を繰り返して敵艦に激突します。命中率は潜水艦よりも確率は高くなる兵器です。

山口県光市の光基地で「停泊艦攻撃」「巡航艦攻撃」の訓練開始。呉海軍工廠魚雷調整工場から運んできたクレーンで海中に降ろされ、追躡(ついしょう)艇(訓練で発射された回天の追跡・回収を行う)の横腹に抱きかかえながら目的地に達着、追躡艇より回天に乗り移り、ハッチを開けて搭乗、追躡艇の合図により発動桿を引くと時速五十六㎞のスピードで発射、水深十㍍位、目標の島との距離を推測して特眼鏡を挙げ距離を観測して縦舵、横舵を操縦して、方向と深度を調整して運航します。島をぐるりと廻り基地にまで帰途します。追躡艇には四、五人の訓練搭乗員が乗船しています。追躡艇の指揮官は、回天が航法を誤り岩や陸岸に向かって水中を突進するなど、操縦に危験を感じたときは「発音弾」を海に投下します。小型ですが、少し沈下してから爆発すると、その音が潜航している回天によく聞こえます。操縦者は直ちに速力を落として浮上し、危険を回避するのです。

訓練終了後の夜は一室に集められ、その日の搭乗訓練の全部について、搭乗者本人から経過報告、追躡艇指揮官の補足と批評、先任搭乗員の意見、続いて質疑応答があり、各訓練搭乗員の自覚をうながしていました。

夕食後は酒保(軍隊の営内にあった、飲食物の売店)からデザートや甘いものが配給されます。ある日ミカンが山盛りに配られたので事情を聞くと訓練搭乗員のひとりが、民間のミカン運搬船と衝突し、沈没させたので積み荷のミカンを水揚げしたとのことでした。私が追躡艇に乗船していたとき、発煙筒が投げられたことがありました。前方の海中を走っていた回天の航跡が急に見えなくなったので、本部に
無線で連絡すると、救助艇が駆けつけ水中に潜行して救助活動をしましたが、回天の頭部が海底に突き刺さっていました。回天は魚雷のエンジンとスクリューで推進しますので、スクリューを逆転することが不可能ですので後戻りが出来ません。救助に時間がかかり、訓練搭乗員は酸欠で死亡していました。(注②)またある訓練搭乗員は特眼鏡を引っ込めずに航行中の船底に激突してハッチが開かなくなってやはり酸欠で殉職したこともありました。

毎日二十基の回天がクレーンで降ろされて訓練しましたが、その内二基か三基は事故で死亡が確認されていました。特攻新兵器として開発されただけに犠牲者も出ましたが、そのことに動揺はせず、戦局が厳しい中、一日も早く出撃すべく毎日訓練に励みました。

以後、山口県熊毛郡平生町の平生基地に配属されました。

搭乗員は秘密を漏れないようにと外出が許可されていませんが、出撃直前になると「錨」のマークが付いた「衛生サック」を渡され、遊郭に行って遊んできなさいと言われました。私は禁断の実を食べたら出撃の気持ちが削がれると思い辞退しました。海軍は変なところに親心を出すもんだと思いましたが、恋人も居ましたので童貞を守りました。(敗戦後、恋人と逢ったら、中学校の二年先輩と既に結婚していました。)

菊水隊として出撃したが、回天の故障で帰還した戦友からこんな話を聞かされました。潜水艦長が、基地司令部に「第一回天、◯◯上飛曹(上等飛行兵曹)米ルイジアナ巡洋艦轟沈!。第三回天◯◯上飛曹自爆!」という報告がなされているのを聞き、二、三分前まで艦内で世間話をしていた戦友が「撃沈」「自爆」と聞いたときの心境は、潔く死ぬことを決意していても例えようがないと漏らしていました。

回天が不発の場合は、敵に回収されて機密が漏れるのを恐れて全員自爆せよと教育されていました。母艦の艦長は、発射から敵艦への到達時間を見ながら爆発音の大きさで「轟沈」と「自爆」を判断して司令部に報告する決まりになっていました。

その後、大分県速見郡日出町大神基地と移り、第二特攻隊所属「大神突撃隊」となりました。

出撃は伊号大型潜水艦の甲板に六基乗せて出撃します。出撃回数は三十二回、搭乗員は一〇四名(注③)。私の部屋も六個のハンモックが吊されてあり、四人は出撃し、次回は私達二人だと出撃を待っていました。その時考えていたのは、死後は「地獄」と「極楽」があるが、お国のために命を落とすのだから「極楽」に行けると自分なりに悟っていました。

その頃、海軍の潜水艦は米軍の爆雷攻撃で殆どが撃沈されて、回天を乗せることが出来なくなりました。沖縄県にも米軍が上陸したので、本土にも上陸することを想定し、敵の艦砲射撃にも耐える海岸近くの丘に高さ二㍍奥行き三〇㍍の地下格納壕を掘り、レールの上に回天を取付けました。この工事では多くの朝鮮人労務者が働かされていました。私のような若造が年上に言い辛いけどお国のためだと自ら言い聞かせて、五十から八十歳位の朝鮮人三人をこき使ってきました。米軍上陸用舟艇が襲来すれば搭乗員が直ちに乗り込み、レールを走って海中に潜行し「特攻」するようにと命令され、次回は私達と覚悟して毎日待機していました。

八月十五日の玉音放送は聴きませんでしたが、上官から戦争は終わったから搭乗員は戦犯になるかも知れないので一足早く故郷に帰れと復員命令が出ました。ところが基地内で「ポン、ポン」と銃声が聞こえますので上官に来てみると、戦友が、ピストルで自害をした聞かされました。歓呼の声で送り出された故郷には「ニッポン男子」として生きて帰れないのか、天皇陛下に申し訳ないと思ったのか分かりませんが、復員命令が出されてから自害をしたことを、もし親が聞かされたら、何で馬鹿なことをしたんだのだろうと嘆かれたと思います。私は父親が教員を止めて、一人で農業をやっていましたので復員して手伝おうと白石町に帰郷しました。

十八歳の夏のことでした。

 

敗戦で帰郷、そして共産党を知る

大神基地より帰郷。佐賀県白石町の父母や兄弟姉と久し振りの面会でした。兄貴は歯科大学を卒業して近くで歯科医院を開業していましたが、その兄貴が学生時代社会主義研究会にて共産主義を勉強したとかで、私に今度の大戦は日本軍国主義侵略戦争日本共産党は全面的に反対していた、治安維持法で一八年間も投獄されていたと話を聞かされてビックリしました。

私は海軍服役中に毎月給料を貯金していたの、その通帳毎、代々木の共産党本部にカンパしました。そしたら本部から連絡があり、直ぐに日本共産青年同盟(現日本民主青年同盟)に加盟しなさいと勧められて、加盟しました。

昭和三十四年上京し、世田谷区上北沢三丁目で水道工事店を開業しました。直ぐ、日本共産党世田谷地区委員会上北沢居住細胞(現・居住支部)に入党し、日刊アカハタ新聞(現・しんぶん赤旗)を配達しました。徳田球一、津金祐近、梅津四郎、三田忠英、門田昌子、田副民夫、笹尾とし、里吉ゆみ、たかじょう訓子の選挙対策本部で活動し、各議員の当選のために頑張ってきました。

いま、安倍政権が憲法九条の解釈をねじ曲げて「戦争法案」を国会に提出していますが、私は予科練で教官から教えてもらったことを思い出しました。それは海軍陸戦隊(現在の米軍海兵隊と同じく上陸部隊)が敵地に上陸する時は、植民地の台湾人、朝鮮人の兵隊を先に上陸させて「弾よけ」にしました。彼らに「鉄砲の弾は前からだけではないぞ。後ろからも弾が飛んでくるぞ」と脅かしたそうです。

アメリカは志願制ですから兵隊を集めにくいので、戦場では自衛隊員を「弾よけ」にするために「集団的自衛権」でアメリカに協力するのではないかと考えています。こんな法案は絶対に反対です。毎月九の日には、「憲法九条を愛する烏山の会」の方々と一緒に街頭宣伝をしていますが、回天搭乗員の体験を若い人に「七十年目の伝言」を聞いてもらいたいと「自分史」を編纂しました。海の藻くずと散った若い百四十名の回天特攻隊員の冥福を祈るとともに、生き残った私は、先の大戦で亡くなった日本人とアジアの人々の尊い命を犬死にさせないため、恒久平和のための人柱になりたいと思います。

著者 田中直俊(たなかなおとし)氏

 

若鷲の歌

作詞 西條八十 作曲 古関裕而

一、若い血潮の予科練
七つボタンは櫻に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の雲が湧く

二、燃える元気な予科練
腕はくろがね心は火玉
きっと巣立てば荒海超えて
行くぞ敵陣なぐり込み

四、生命惜しまぬ予科練
意気の翼は勝利の翼
見事轟沈した敵艦を
母へ写真で送りたい

(歌詞出典:J-Lyric.net 若鷲の歌

音声はこちらからお聴きください Youtube「若鷲の歌」検索結果

 

注釈:

(注①)「若鷲の歌」予科練を募集するための宣伝目的で作られた戦意高揚映画『決戦の大空へ』の主題歌。日蓄レコードより発売され大ヒットした。

(注②)市川海老蔵主演の映画「出口のない海」はこの事故がモデルかも知れません。海老蔵が扮する主人公並木浩二が海底に突っ込んで殉職するストーリー。

(注③)【参考文献】光人社文庫小島光造著「回天特攻・人間魚雷の徹底研究」

 

開催報告】オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験 Vol.3~(2021年3月21日開催)

これまでに2回、「オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験」を開催したところ、大変好評だったため、去る3月21日(日)、第3回目となる「オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験」を開催しました。

 

前回まではご希望のお話を選択して頂き、参加者をグループ分けしておりましたが、今回は全ての参加者で第一部、第二部合わせて2名のお話を伺いました。お話のテーマは以下の通りです。

 各テーマの概要はこちらをご覧ください。

 <第一部> 戦争と水俣病、その加害と被害

永野三智さんには、運営する「水俣病歴史考証館」を動画を交えて案内して頂きました
運営されている「水俣病歴史考証館」を動画を交えて案内して頂きました。

 

<第二部>原爆詩「ヒロシマの空」を書いた祖母

お祖母様が書かれた原爆詩「ヒロシマの空」をZoomで朗読して頂きました。

 

 
今回の参加者は25名でした。学生が約1/4と比較的多めで、他は20代の社会人から70代の方まで、多様な世代の方にご参加いただきました。
 
また、前回と同様、終了後に30分間のフリートークの時間を設け、自由に話し合いました。
 

 
参加者の満足度は高く、アンケートでは「満足した」と「ある程度満足した」を合わせて85%に上り、全員にそれなりに満足していただくことができました。
 
アンケートから、主なものを抜粋して紹介します。
 
<感想>
  • 2回目の参加です。お話の内容のみならず、伝えてくださった永野さん・中山さんの思い、参加された皆さんの意見も素晴らしかったです。
  • お若い方もしっかり考えているということに、大変希望を感じます。
  • 自分の親族の戦争体験談もなるべく早くに聞いてみようと思ったと同時に、暗い話だけではなく当時の何気ない日常について聞くことも大切なのだと気づかされました。
  • 戦争に関して加害と被害の両面を捉えることで、これまで持っていたイメージが覆され、より考察を深めるきっかけになりました。
<イベントの趣旨・形式について>
  • こうしたzoomによるトークセッションで初めて議論が深まったと感じました。
  • 時間の進行やマネージがしっかりしており、建設的な議論だったと思います。
  • 継承も含め悩んでいる若い人がこうして集まっていろいろ勉強するというのは、とてもいい機会になっていると思います。
  • 伝え聞きは、震災の伝承など他の分野にも共通すると思いました。
  • グループに分かれての質疑応答がとても有意義な時間でした。
 
今回の報告は以上となります。
history for peaceでは、今後も本イベントを継続していきますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
 

【参加者募集】オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験 Vol.3~(2021年3月21日開催)

「戦時中、おじいちゃんは飛行機のパイロットだったそうです」
「おばあちゃんは空襲を逃げ延びたと言っていました」
「戦死したおじさんについて調べていたら、こんなことがわかりました」

いろんな人が親族から聞いたり、調べたりした戦争体験を聞いてみませんか?

戦後76年を迎えた現在、戦争体験者から直接お話しを聞く機会は年々減っています。

当事者がいなくなる日が近づいている今、戦争体験を継承していくために私たちにできることはなんでしょう?

history for peaceでは、亡くなった親族から聞いた戦争の記憶や、自分たちで調査した先祖の軍歴について話し合う場を設け、これからの継承活動を模索していきます。

第1回(昨年11月)、第2回(1月)ともに大盛況だったオンラインイベントの、第3回目の開催が決定いたしました。

今回は、当団体のイベント初登壇となる二名のスピーカー様をお呼びしていますので、初めて参加される方も、以前参加してくださった方も、奮ってご参加ください!

※前回の報告はこちらからhttps://historyforpeacestaff.blogspot.com/2021/02/vol22021131.html

 

 
前回の様子

 

【開催概要】 

 

  • 日時:2021年3月21日(日)19:00~21:30
  • 場所:オンライン(Zoom)
  • 参加費:無料
  • 対象者:Zoomが使用可能な環境にあり、様々な戦争体験を聞いてみたい方
  • 主催:history for peace

 

【申し込み】

以下のフォームからお申込みをお願いします。

 

URL: http://bit.ly/HfP-online-event-vol3-20210321

 

※お申込み後5分経っても自動返信メールが届かない場合は、historyforpeace@gmail.com までご連絡ください。icloud.comへは送信できません)

 

【参加方法】

 

(1)申し込み完了後、自動返信メールが届きます。

(2)当日、時間になりましたら、Zoom会議にご参加ください。

 

【内容】

 (1)イベント概要の説明の後、一人目(前半)の戦争体験を聴きます。質疑応答の時間もあります。

(2)途中、休憩を挟み、二人目(後半)の戦争体験を聴きます。

(3)最後に全体で感想・今後の戦争体験継承の課題・その他感じたことを話し合います。

   

※21時より30分間、フリートークの時間があります。時間内に話しきれなかったこともぜひお話しください(参加、退出自由)

 

【お話の内容】

 

今回は第一部・第二部に分け、2名の方にお話しいただきます。

<第一部> 戦争と水俣病、その加害と被害

戦争における加害と被害、その経験と、経験を語ることの難しさは、公害病を引き起こしたチッソによって植民地化された水俣にも共通しています。戦争を経験しながら水俣病の被害を受けた人たち。戦争に協力したチッソで働いた人びととその家族。それぞれの場にいた「ひと」に焦点を当てながら、水俣病センター相思社で聞き取りをしてきた経験を元に、その歴史をひもときたいと思います。

<第二部>原爆詩「ヒロシマの空」を書いた祖母

「お母ちやんの骨は 口に入れると さみしい味がする」――。広島で被爆した祖母は、家族を亡くした体験を詩につづりました。詩は、吉永小百合さんが長きにわたって朗読し、井上ひさし著「父と暮せば」の参考文献にもなった一方、祖母自身が体験を語ることはほとんどありませんでした。祖母の死以降、調べてきたことを詩の朗読も交えてお話します。

お話のあとには質疑応答の時間もあります。自由に意見交換してください。
皆様のご参加をお待ちしております。

  

<申し込みフォーム>

URL: http://bit.ly/HfP-online-event-vol3-20210321

 

【お問い合わせ】

history for peace

E-mail: historyforpeace@gmail.com

HP: http://historyforpeace.org/

Twitter: https://twitter.com/historyforpeace

【開催報告】オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験 Vol.2~(2021年1月31日開催)

昨年11月21日に「オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験」を開催したところ、大変好評だったため、去る1月31日(日)、第2回目となる「オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験」を開催しました。
 

第1回は申込時に親族の体験談の話をするか、聞くだけかを選択して頂きましたが、今回はあらかじめ決められた話者のお話を選択して頂くスタイルとしました。
 
前半、後半で各2名の中から1名を選んでもらいました。お話のテーマは以下の通りです。
各テーマの概要はこちらをご覧ください。
 

<前半>

(1)「広島」――加害と被害が折り重なった都市で
(2)日中戦争で亡くなった曾祖父の体験
 

<後半>

(3)硫黄島と沖縄特攻で亡くなった祖父の兄
(4)「玉砕の島」からの手紙
 
 
 
 
今回の参加者は22名でした。学生が約1/3と比較的多めで、他は20代の社会人から70代の方まで、多様な世代の方にご参加いただきました。
 
また、前回話し足りないという意見があったことから、今回は終了後に30分間のフリートークの時間を設け、自由に話し合いました。
 

 
参加者の満足度は非常に高く、アンケートでは「満足した」が76%、「ある程度満足した」が24%で、全員にそれなりに満足していただくことができました。
 
アンケートから、主なものを抜粋して紹介します。
 

<感想>

  • 細かな資料を示しつつ、親族から聞いた当時の状況(そのとき感じたこと)の説明もあり、分かりやすく、共感もしやすかった。
  • とても刺激的な会でした。ありがとうございます。ちゃんと、こういう人たちがいてくれることにすごい希望を感じました。はぁ、捨てたもんじゃないですね、この国は。今日のスタッフさんたちを大切に大切にしていきたいです。
  • 歴史の資料そのものを見たり読んだりすることでは見えてこない、語り部自身のストーリーで、「過去のものではない」「今まさに自分(自分たち)に直結していることだ」というふことを感じたいと思いました。
  • 60代で、親たちや被害者の戦争体験を直接聞き、それを伝えることができる最後の世代です。当事者が亡くなっていくことにより、継承の難しさに悲観的になっていました。若い人たちのこの試みは驚きで、zoomを使いこなし、見知らぬ人たちと話し合えるこんな方法があるとは、素敵すぎます。
  • 若い人たちが、自分自身から出た問いに端を発し、粘り強い努力で親族の足跡を追っていき、亡くなった人の戦争体験をとても具体的に身体性を伴う自分自身の体験に変換していく過程に、とても感銘しました。

<イベントの趣旨・形式について>

  • 三者視点の話は、調べた経緯や家庭も含め、初めて聞いた話だったのでとても新鮮だった。
  • 「直接体験でない戦争体験をうかがう」という私にとっては初めて体験でしたがとても説得力のあるもので、発表者の方の並々ならぬ調査に支えられているということを感じました。
  • 戦争世代がもういなくなる中での試みとして、有望だと思います。コロナが終わっても、ズームという形は生かしていけるのではないでしょうか。
  • 自分が参加していない他のセッションの方も気になりました。グループに分けなくてもいいのかな、と思いました。
今回の報告は以上となります。
history for peaceでは、今後も本イベントを継続していきますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
 

【映画】金陵十三釵(きんりょうじゅうさんさ)/南京事件を描いた美しき大作

 『金陵十三釵』(きんりょうじゅうさんさ、英語題:The Flowers Of War)は、2011年公開の中国映画。張芸謀チャン・イーモウ)監督作品。今回、中国からの留学生スタッフが、この映画を紹介します。

南京事件を題材としたフィクション作品で、中国映画史上最高額となる製作費6億元(約78億円)を投じた超大作であり、2011年の中国の年間総興行第1位(約71億円)と大ヒット。中国社会に大きな影響を与えました。第84回アカデミー賞外国語映画賞中国代表作品(Wikipedia)。残念ながら、この作品は日本で公開されていません。日本の人々にこの良作を知って頂きたく、この映画について紹介したいと思います。

 

 

中国と西洋双方の文化を由来に持つ題名

金陵はこのストーリーが起こった町である南京の旧名です。「十三釵」という標題には中国文化と西洋文化両方を含んでいます。まず、「釵」というのは、昔の女性たちが冠が落ちないように、髪に挿した髪飾りの一つです。また、美しい女性のことを指しています。中国の古典名著「紅楼夢」の中には、金陵十二釵という十二人の若い女性が登場しました。彼女たちはすべて抜群のみかけを持っていましたが、悲惨な運命から逃げられませんでした。このために、「金陵十三釵」という標題は中国伝統文化の視点から、「紅楼夢」の金陵十二釵を象徴しながらも、小説中の女性群像を暗示しています。彼女たちは若く綺麗だが、どうしても悲惨な生涯を避けられない、というものです。

また、西洋文化からすると、標題中の「十三」にはもう一つのメタファーが隠れています。「十三」はキリスト教文化において一つの重要なシンボルです。イエスは彼の十二人の弟子と、合計十三人で最後の晩餐を食べ、ユダに裏切られてイエスが十字架に掛けられました。このため、「十三」は聖書中の重要な数の一つであり、不吉を意味しています。映画の標題中の「十三」も不吉の意味を暗示していました。人類を助けるために、命を捧げたイエスと同様に、映画の十三名の主人公は、無辜の女子学生を助けるために、クリスマスイブの夜に、危険に勇敢に立ち向かったのです(金陵十三钗)。

 

あらすじ

この映画の舞台は日中戦争下、1937年の南京です。南京へ侵攻してきた日本軍から迫害を受け、教会の建物の中へ逃げ込んだ中国人女子学生ならびに娼婦らを米国人納棺師ジョン(クリスチャン・ベール)が聖職者になりきり匿い救います。日本軍士官長谷川は女学生たちを保護する約束をしますが、同時に彼女等がパーティーで賛美歌を合唱するよう要求します。女子学生たちを助けるために、一緒に避難していた12人の娼婦と1人の少年侍者が女子学生に扮装し、身代わりとして日本軍の南京陥落パーティーに赴き、その隙にジョンは修理された教会のトラックと密かに入手した通行証で女子学生たちを南京から救出します。

 

年表

1937年(昭和12)年

7月7日 盧溝橋事件:北京(北平)西南方向の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍第二十九軍が衝突
8月14日 日本軍初の南京爆撃
12月13日 南京事件

 

南京事件

1937年(昭和12)年12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件(Wikipedia)。

 

本作に強い影響を与えた二冊の本

この映画は、アメリカ籍中国人、厳歌苓の同名小説をベースとして、一部変更されたものです。作者によると、この小説を書くにあたり、非常に多くの文献を参考にしました。その中の二冊が特に作者に深い影響をあたえました。一つは「魏特琳日记」、もう一つは「陷京三月记」です。

1930年代、ミニー・ヴォートリンという女性は金陵女子文理学院という学校の校長として務め、世を去った後、この日記が残りました。この日記は彼女が身をもって経験した南京虐殺、およびその後日本人が南京で植民地支配を実施したことを詳細に記録しています(魏特琳日记)。

 

中国を代表する監督

張芸謀チャン・イーモウ)は中国を代表する映画監督の一人です。1987年、『紅いコーリャン』で映画監督としてデビュー。翌1988年の第38回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しました。1990年の『菊豆(チュイトウ)』は第63回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされました。1991年の『紅夢』は第48回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。1992年の『秋菊の物語』は第49回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。彼は最も中国の特色を持っている監督であると評価されています。作品の内容は社会の下層の小人物たちに着目し、繊細で豊かな物語を通じ人生や社会を描いています(Wikipedia)。

 

美しいチャイナドレスも作品の魅力

この映画は物語が優れている以外に、画面と服装も非常に美しいのが特徴です。服装は映画において重要な要素の一つです。人物たちの性格がさまざまな服装を通じて表現することができます。以下のイラストが、この映画で登場した十三名の主人公の服装です。

チャイナドレスは中国女性の「国を代表する服」として賞賛されています。日本の着物と同じく、中国人はチャイナドレスを介して、女性の特別な曲線と魅力を示すことができると考えています。この映画では多数のチャイナドレスが出てくるので、これをきっかけとして、中国文化の「感性的な側面」を理解して欲しいと思います。以下URLをクリックして頂くと、本作の衣装を見ることができます。

百科图片 金陵十三钗中的绝美旗袍(日历版)

 

 

購入はこちら

本作品は日本語版および日本語字幕付きのDVDは出ていません。英語字幕のあるDVDは以下で購入できます。

【参加者募集】オンラインで話してみよう~みんなが“聞いた”戦争体験 Vol.2~(2021年1月31日開催)

 「戦時中、おじいちゃんは飛行機のパイロットだったそうです」

「おばあちゃんは空襲を逃げ延びたと言っていました」

 

「戦死したおじさんについて調べていたら、こんなことがわかりました」

 

いろんな人が親族から聞いたり、調べたりした戦争体験を聞いてみませんか?

 

戦後76年を迎えた現在、戦争体験者から直接お話しを聞く機会は年々減っています。

 

当事者がいなくなる日が近づいている今、戦争体験を継承していくために私たちにできることはなんでしょう?

 

history for peaceでは、亡くなった親族から聞いた戦争の記憶や、自分たちで調査した先祖の軍歴について話し合う場を設け、これからの継承活動を模索していきます。

 

昨年11月21日に第1回を開催したところ、大変好評だったため、再び開催します!

ぜひご参加ください。

 

※前回の報告はこちらから

https://historyforpeacestaff.blogspot.com/2021/01/event-Nov22020.html

 

前回の様子

 

 

【開催概要】

 

  • 日時:2021年1月31日(日)19:00~21:30
  • 場所:オンライン(Zoom)
  • 参加費:無料
  • 対象者:Zoomが使用可能な環境にあり、様々な戦争体験を聞いてみたい方
  • 主催:history for peace

 

【申し込み】

 

以下のフォームからお申込みをお願いします。

 

URL: http://bit.ly/HfP-online-event-vol2-20211131

 

※お申込み後5分経っても自動返信メールが届かない場合は、historyforpeace@gmail.com までご連絡ください。

icloud.comへは送信できません)

 

【参加方法】

 

(1)申し込み完了後、自動返信メールが届きます。

(2)当日、時間になりましたら、Zoom会議にご参加ください。

 

【内容】

 

(1)イベント概要の説明の後、グループに分かれて戦争体験を聴きます。質疑応答の時間もあります。

(2)途中、休憩を挟み、再度グループ分けを行い、戦争体験を聴きます。

(3)最後に全体で感想・今後の戦争体験継承の課題・その他感じたことを話し合います。

   

※終了後、フリートークの時間もありますので、時間内に話しきれなかったこともぜひお話しください(参加自由)。

 

【お話の内容】

 

今回は4名の方にお話頂きます。前半・後半でそれぞれお話を聴きたい方を選べます。

 

※申込人数によってはご希望に添えない場合があります。あらかじめご了承ください。

 

<前半>

 

(1)「広島」――加害と被害が折り重なった都市で

 

私の祖父は1945年8月6日・広島原爆の直後に爆心地付近に入り、5年後に死去しました。ただその前日までの祖父は、ゼネコン(土木会社)の社員として「徴用工」を使う立場の人間でもありました。加害と被害が折り重なった広島という都市のこと、祖父のことを、今まで語れなかった理由も含めてお話したいと思います。

 

(2)日中戦争で亡くなった曾祖父の体験

 

シベリア出兵と日中戦争に衛生兵として出征し、武漢攻略作戦時に戦死した曽祖父の人生についてお話しさせていただきます。2年前に私自身中国へ旅行し、曽祖父が戦死する約1ヶ月前に渡った南京の長江を見てきました。曽祖父の人生と、私が中国で見たことを混ぜてお話しします。

 

<後半>

 

(3)硫黄島と沖縄特攻で亡くなった祖父の兄

 

戦死した祖父の2人の兄の足跡を追っています。 長兄は海軍軍属として硫黄島で、次兄は特攻隊として沖縄を目指してそれぞれ戦死しました。次兄の遺書を見たことをきっかけに調べ始め、ゆかりの地を訪れ、公的記録や資料をたどり、2人を直接知る人を探して会い

に行くなどして調べています。

 

(4)「玉砕の島」からの手紙

 

「俺の命はなきものと思ってくれ――」遺影の裏から発見したのは、祖母の最初の夫から送られた最後の手紙。雪国の故郷を遠く離れ、赤道直下のニューギニア・ビアク島に眠るその人は玉砕の島で何を思っていたのか。義理の孫にあたる私の調査が始まりました。 

 

 

お話のあとには質疑応答の時間もあります。自由に意見交換してください。

皆様のご参加をお待ちしております。

 

<申し込みフォーム>

URL: http://bit.ly/HfP-online-event-vol2-20211131

 

 

【お問い合わせ】

history for peace

E-mail: historyforpeace@gmail.com

HP: http://historyforpeace.org/

Twitter: https://twitter.com/historyforpeace

【開催報告】オンラインで話してみよう ~わたしが“聞いた”戦争体験~(2020年11月21日開催)

2020年11月21日、history for peaceとしては初めてのオンラインイベントを行いました。

参加者は10代から50代までの10名。非戦争体験者による戦争体験のトーク会という新しい試みです。

〈企画の背景〉

終戦から75年が経ち、実際に戦争を体験した方から直接お話しを聞く機会は年々失われ、今後の継承活動のあり方を真剣に検討する時期がきています。

語り部の育成を行っている団体や、実体験をデジタルアーカイブ化している団体、様々な取り組みを行う団体がある中、history for peaceでは、記録に残る戦史を機械的に伝えるだけでなく、戦争を経験していない世代が、直接体験者から“聞いた”話を語り直すということに意義があるのではないかと考えています。

そこで、私たちは非戦争体験者による太平洋戦争の継承方法を模索するために、親族から聞いた、または、調べた戦争体験を語り、話し合う会を設けることにしました。

 

〈企画概要〉

・日時:2020年11月21日(土)19:00~21:00
・場所:オンライン(Zoom)
・対象:親族の戦争体験を誰かと共有したい、聞いてみたい人(戦争の直接体験は含まない)
・主催:history for peace

〈プログラム〉


ブレイクアウトセッション(1)40分

自己紹介 5分
お話①・・・話10分、感想7分
お話②・・・話10分、感想7分

2グループに分かれ、スピーカーが同じグループのメンバーに約10分で戦争体験を共有(スピーカーは各2名)

それぞれのグループで、中国系タイ人のご主人のお祖母様から聞いた戦争体験、呉空襲を生き延びたお母様から聞いた戦争体験、自分で調べた親族(祖父など)の戦争体験を聞いた後、質疑応答の時間を設け、理解を深めました。



◆休憩 10分

ブレイクアウトセッション(2)40分

グループを再編成し、(1)と同じ手順でセッションを行いました。

◆全体での感想共有・意見交換 20分

戦争体験者ではないスピーカーから聞く戦争体験についてどう思ったか、直接体験を聞いた場合と今回のような間接体験を聞いた場合の比較、今後の継承活動のあり方などを話し合いました。

  • 体験者のお話しは当時の感情などが前面に出るが、当事者以外の話は冷静かつ多角的な視点で語られるのでまとまりがあり、わかりやすくなっていてよかった。
  • 又聞きになると当事者ではない第三者のフィルターがかかるので、正確性が問われるのではないか。
  • 非体験者が戦争体験を語るには、冷静に事実関係を分析し、深く勉強することになるので、継承方法としては良いと思う。
といった意見が出ました。


今回のイベントは、非戦争体験者による継承活動の手法を模索し、確立していくきっかけになったと感じているので、今後も不定期に開催していきたいと考えています。

ご参加いただいた皆さん、貴重なお話し、ご意見、本当にありがとうございました。